「英語の授業は英語で」とされる背景には、もう長々年にわたる、「中高で6年、大学も入れれば10年も英語やってて、ひとっつも使えない英語やっててなんになる!」という批判があることは明らかですが、果たして「だから英語の授業は英語で」やれば「話せる」ようになるのでしょうか?あるいは「英語が話せれば」いいのでしょうか?

 「話せない」という批判については、①なぜ「話せない」のか ②(小)中高の英語教育の目的はなにか の2つの面から考えてみましょう。

①なぜ「話せない」のか
・日本語と英語は根本的に構造が違う
 日本語と英語は

 「結論を先に言う英語、後に言う日本語」

 「S(主語)がO(対象を)V(~する)が中心の発想の英語

 と、 Sが~なる中心の日本語」

 「語の順番で意味が決まる英語と、助詞の働きで意味がき

 まる順番にこだわらない日本語」

と根本の構造も、さらに発音も全くことなる言語です。英語はそもそも日本人にとって習得の難しい言語で、さらに即座に適切な発話が求められるspeakingは、本来は大変高度な技能です。


・授業時間が少なすぎる
 これは、今のような週数回の時間では、英語を教えること自体意味がないと言っているわけではありません。英語の「土台」を築く時間数は確保されています。しかし、「英語で授業をして、英語が使われている環境に身を置いて英語を習得する。」には週数回の授業は少なすぎます。限られた時間数で「効率よく」英語を学ぶには「英語の授業は英語で」は適切な方法ではありません。

 

・英語ができないと「食べていけない」環境にない
 世界にはまだまだ「母国語」で大学以上の高等教育を受けるのが難しい国、、また高度な技術を要する職業に就くには英語が不自由なく使えることが必須の国もたくさんあります。そんな国では英語を話せるのはいわば将来「食べていく」ために必須の技術です。高等教育もどんな職業でも母国語で行える日本人にはこの最大の「動機付け」がありません。

 

 いや、これからグローバル化する世界では、英語が不自由なく使えることが必須だと英語の社内公用語にする会社もあるようですが、人間の言葉は簡単に乗り換えていいものではありません。言語はそれぞれの民族の「思考」「文化」を規定するもので、後で習得した外国語より、母国語によってのみ深く考えられること、発想できること、また人間関係でも丁寧に正確に気持ちを伝えられるものです。「これからは日本人の間でも英語で」としてしまって何を失ってしまうのか、よくよく考える必要があると私は思います。
 

②(小)中高の英語教育の目的は何か
 

 「文法の細かい違いを気にしすぎて、入試の何度の高い英文の読解に力を入れすぎて、『使える』英語が身につかない。」これも繰り返し言われるところです。確かに、仮に今の英語の授業の大半を「話す」活動に費やせば生徒はもっと自然に発話できるようにはなって行くことでしょう。
 

 しかし、英語の文法は例えば高層ビルを建てるときの深いくい打ちのようなものです。 低学年から「どんどん使う、話す。」中心の授業では、しっかりくいを深く打っていない建物のように、その上にどんどん階を積み重ねていくことはできません。
 

 そもそも、基礎となる中高での英語教育の目標はなんであるべきでしょうか?英語を将来どう使うかは、生徒の将来の選択によります。研究のために多量の英語の文献を「読む」力がまず要求される場合もあるでしょう。

 

 ほとんど英語を使う機会がない職業でも、文法や和文英訳での英語との対比を通じて日本語を見直すことができたというなら、これも「英語を学んだ」意義となり得ます。

 

 英語を話すのが「接客」に必要な程度であれば、わざわざ中高で何時間も使わなくても、実地に仕事に就くようになってからで十分マスターできます。「話せる、使える」自体を中高の英語教育の成否のバロメーターとするのは適切とは思えません。
 

 中高での基礎となる英語教育の目的は、将来どのような形で英語を使うようになっても、そこで自分に必要な技能を伸ばせる「土台」を築くことではないでしょうか。
 

 「基本の文法」はどの分野に進んでも、その後身につける英語が積み重なる大切な土台であり、大学入試のための詰め込んだ語彙も、いったん忘れたように思っても将来振り返れば必ず、「あ、そういえば」と思い出せるものです。

 今までの入試の準備も含めた英語教育は、基本の方針としては決して誤った方向のものではなかったと私は確信しています。しかし、それが方法論も含めてすべて正しかったわけではもちろんありません。次回は私の英語授業の「反省と目標」について書いてみようと思います。