日本の英語教育は、「文法と語彙」という英語の土台を築くのに貢献している。という事を述べましたが、今日は「やっぱりそうなのか」と思った実例を2つ紹介します。

 

 お一人は立命館大学 言語教育情報研究科教授の 田浦秀幸先生。

 

 先生が20歳でオーストラリアの大学に留学された際に、まず多くの国の留学生とともに、大学入試準備コースに入ると、外国からの留学生、特に中東からの留学生はしょっぱなからペラペラ英語を話し、「どうしてすぐに大学に留学できなかったんだろう。」と思うほどだったそうです。しかしペーパーテストをしてみると上位は日本人ばかり。

 

 日本で文法もしっかりやってきて、単語もやりこんでいたので、3ヶ月が経つころには、かなり慣れてきて英語の回路が構築されてきたのではないかと分析されています。

 

 結果、日本人留学生は全員無事準備コースをパスして大学へと進んだ一方、中東からの留学生は半分くらいしか合格できなかったそうです。

(「科学的トレーニングで英語はのばせる!」 田浦秀幸 マイナビ出版 2016 頁75-77)

 

 もう一人は元早稲田大学教授で、NHK続基礎英語の講師もされた、田辺洋二先生も、ご自身がミシガン大学に留学された時、英語の表現力を拡げるのにその倉庫となったのは受験のための勉強の結果と延べ、英語を聞き、話せるようになるためには2つの行程が必要であり、一つは耳で聞き、口で話す行程と、もう一つは単語や熟語を積み上げ、文法を理解させ、正しく内容を読み取る作業で、これはまさに「受験英語」そのものであると指摘されています。

 

 同時に先生は、当時の英語教育がもっとも必要とすることは、「英語を聞き取る作業をもっともっと増やすこと。」とも主張されています。

(「学校英語」 田辺洋二 ちくま書房 1990 頁111-113)

 

 お二人とも、言語習得論や応用言語学といった「使える英語習得学」の第一人者といってもいい先生方です。

 

 私は、過去の日本の英語教育すばらしい!と礼賛論を書きたかったわけではありません。

 

 ただ、「英語やりたいとは思うけど、学校で役にもたたない英語ならっただけだしなあ..。」なんて思う必要はまったくないですよということです。

 

 中学高校で一通り英語をちゃんと(「ちゃんと」って他の生徒と同じくらいという程度です)やってきたなら、また勉強したら伸びていく潜在的英語力は備わっている、なにも無駄なことをしてきたわけではないということです。

 

 私も受験勉強なんて何十年も前ですが、突然「あり・おり・はべり・いまそかり。ラ行変格活用。」とか「オゴタイ・チャガタイ・キプチャク・イル 元の四汗国。」なんてそのころヒイヒイ覚えて、その後まったく縁のなくなった古文や世界史が突然脈絡なくよみがえることがあります。若いころ覚えたことは、頭のどこかにこびりついてるんですね。

 

 「英語またやってみようかな。」と思う人も、昔習った文法や単語は、昔のアルバムみるとその当時がありあり思い出せるようにきっとよみがえるはずです。