☯陰陽破戒無慚⑯赤い涙
日が落ちる少し前の歓楽街を、初老の男性と黒いスーツの男が歩いている。
昼過ぎからの“修練”を終え、凌一はキヨさんを伴って街へとやって来ていた。
目的地は店ではない。
店から五分程のところにあるカレー屋。
ソーちゃんの勤務先である。
『キヨさん、覚悟しておいた方がいいですよ』
「覚悟?はて…何の覚悟だい?」
そんな顔してられるのも今の内だぞ、キヨさん。
数時間前―。
昨日の、人生で一番辛かったカレーの話をすると、キヨさんは
「へぇ~、そう。まぁ、あたしは60年以上生きてるけどね、生まれてこの方、何か食べて“辛い”って思った事は、いっぺんも無いなあ。物心ついた時から、スパゲティにタバスコをじゃんじゃんかけて食ってたよ。蕎麦にも、うんと七味を入れてさ。周りの大人が止めるけど、あたしはケロッとしててねえ。うん」
俺は思った。
ここにも“自称・激辛王”がいる…と。
ならば答えは一つ。
食わせてやるまでよ。
百聞は一見に如かず、激辛は一口に如かずである。
喫茶店での奇妙な出会いから、ひと月ちょっと。
今や師匠格だが、そんなものは関係ない。
キヨさん…年甲斐もなく“辛いと思った事が無い”などという子供染みた見栄を張るあんたは、俺と同じ思いをするがいい。
この辺りにソーちゃんの店があるはずだ。
いかん…キヨさんが辛さでのたうち回るその時が近づくにつれ、高揚が抑えられなくなってくる。
俺は口角が上がるのを必死に堪えていた。
『この辺のはずですね…』
「あの、角のオレンジの看板かい?」
『ああ、あれっぽいですね…あ!ソーちゃん!』
如何にもカレー屋といった感じの店先で、掃き掃除をしている男。
それは、間違いなくソーちゃんだった。
『おおい、ソーちゃん!』
駆け寄る俺に気づく。
お礼のお礼に来たぜ。このおっさんに、昨日の地球一辛いカレーをお見舞いしてやってくれ。俺のは普通の辛さでいいからな!
『…あれ?』
確かに俺に気づいたはずのソーちゃんが、その場から動かない。
それどころか、こちらに背を向けた。
『ソーちゃん、ボスですよ。昨日はどうもね』
そう言って近づいて行くが、向こうを向いたまま微動だにしない。
『ソーちゃん?』
ポンポン、と右肩を叩くと、ソーちゃんは顔を少しだけ右へ向け…
「アア、ドウモ」と低い声でボソリと呟く。
喜びも歓迎も、何も感じられない声色と表情。
今朝までチーフと三人で笑い転げていたのが、嘘のようだ。
まさか、双子の弟?いや、そんな筈は無い。
『どうした?ソーちゃん』
ソーちゃんはまた明後日の方を向き、こう言った。
「アナタ、カエレヨ、クルナヨ」
『え…おい何言ってんだよ。なんか変だぞソーちゃ…』
そう言いながら彼の正面に回り込んで、俺は硬直した。
左目が、惨く腫れ上がっている。
卵をひとつ、丸ごと埋め込んだかのようだ。
ソーちゃんは俺に顔を見られまいとしたのか、自分の左に首を振る。
ただそうすると、腫れ上がった左目がキヨさんに丸見えになる。
「うおっ!兄さん…どうしたのその顔」
瞼を中心にして、左顔面がどす黒く変色している。
『ソーちゃん、その怪我は…』
「カエレヨ…」
『おいソーちゃん!どうしたんだって!』
「△※▲○●※§▲!」
ソーちゃんは、母国語でまくし立てた。
右目から大粒の涙。完全に塞がった左目から零れる涙は、血が滲んで赤かった。
そして、逃げるように店に駆け込んだ。
『ちょっ…おいソーちゃん!』
後を追おうとしたその時、キヨさんに肩を掴まれた。
「凌ちゃん、ストップ」
『いや、でもあの怪我!』
「うん。でも、ちょっと待った」
『どうしてですか!?畜生、何だあれ!とにかく病院に…』
「ここ、何かいる」
つづく
※このお話は、事実を元にしたフィクションです。
凋落の一途を辿る、陰陽師の生き残りたち。
突如現れた異分子は、救世主なのか、殲滅者なのか。
