「負ける」
人間の本質には
「負けたくない」
それが組み込まれている。
物心着いた時から
「負けたくない」
そう感じながら その思いを大切に生きている。
でも
「勝つ」人がいる世界には
「負ける」人は 必ず一定数いる。
でも
本当に 負けを認められる人はどれだけいるだろう?
「勝ち」たいあまり
「負け」たくないあまり
負けている状況でも 自分を慰めて
「勝った」と思い込もうとすることもある。
人々がそんなにも執着する
「勝ち」とは何なのか?
野生の動物の世界では
「負け」は「死」を意味するのだろう。
だから生存本能によって 勝つために
戦うのだろう。
人間も動物であるから
動物に組み込まれている 生存本能によって
「勝ち」たいと思うのだろうか。
「負け」ることは 「死」を意味するということも
どこかに組み込まれているのだろうか。
では
「負け」を認めることは
自分の「死」と同じなのだろうか。
「死」を認めてしまえば
新しい自分に生まれ変われるということだ。
物事の仕組みは 全てそうだ。
生まれて 生きて 死んで また生まれる。
肉体の死であれ
精神の死であれ
古い価値観の死であれ
死がもたらされれば 生まれ変わる。
そこから新しいものが生まれる。
それなら
きちんと「負け」れば
そこから 新しい自分になれるのではないか?
今の時代 人間は負けたことによって
すぐに死が訪れることは 滅多にない。
(自分で死を選ぶことはあるだろうが・・)
「負け」はそんなに怖いことなのか?
自分の能力を測るために 勝負することは意味がある とは思える。
常に 自分以外の人間は
自分を知るための材料であるから。
自分以外のものがいることによって
自分を知ることが容易にできる。
神の計らい 優しさだ。
自分を知るために 勝負をするのだから
その結果によって 自分を知り 認めればいい。
ある場合は「勝ち」
ある場合は「負ける」
それによって 自分というものを形どっていく。
でも やはり そこに自分が造った
「理想」というものがあったなら
理想というものが 大きかったり
強ければ強いほど
「負け」は辛いだろう。
”ありたい自分” になれない自分は
みじめで 情けなく 嫌いで 認めたくないだろう。
「理想」というフィルターを外して見てみれば
「勝ち」という状態になった人と
「負け」という状態になった人という
それぞれの結果になった人というだけなのに。
ただ 自分の能力というものを
知っただけなのに。
きっと
きちんと 負けられれば
人間は成長する。
たぶん
誰もができるほど
易しいことではない。
人間は今
勝ち負けによって すぐに死なない ということは
「成長」の機会を与えられているということだ。
「負け」た者の ネガティブなエネルギーが
無くなったら 世の中は 平和になっていくのでは
ないかな?
負けのネガティブなエネルギーを使って
「いつか勝ちたい」という思いで
自分を鍛えることが成長になると 思う人もいるだろう。
でも そうした結果が今の世界だ。
皆が「勝ち」を目指し 自分を追い込んでいる世界だ。
「負け」にも素晴らしい意味があるんだ。
「負け」に居場所を造ってあげよう。
「勝ち」も「負け」も同等である
という世界を 私たちで創っていこう。
戦争で「負け」を認めた日本。
武力を放棄した日本。
そうした日本には意味がある。
きっと 日本人に組み込まれているものがある。