こんにちは~中国地方は、中々、梅雨入りしません。
こんな空模様の時は、梅雨明けがない。
もしくは、災害レベルの大雨☔️になる可能性があります。
備えあればですね。

さて、ふと、過去に戻りたくなりました。
その時の気持ちで、何処に戻るか?
わかりませんが、何かのヒント、参考、色々な
人生があるんだと思ってもらえたら。

さぁ、いきますよ。
時は、今から約40年前の広島です。
私の父の兄の奥さんが、子宮がんになりました
子供ながらに、初期ではなかったのかな?って思います。
兄夫婦には子供なく、入院中の世話をしてあげる人が側にいないと言う事で代表で13歳の私が手術後のお世話をする事になりました。
私は、学校が終わると大学病院行きのバスに乗り40分かけて叔母の元へ。
ベッドの上では、鼻に太い管が通り、緑色の濃い液体が流れて容器に落ちてました。
叔母は、痛い、痛いって先生に訴えてました。
私の記憶では、先生は、叔母の吐き気が酷く胃に胃液がたまるからって説明をされていたと思います。
今の現代では、吐き気止めのお薬はいくらでもありますよね。
体を動かせない叔母の身の回りの世話を学校の疲れた体を労る間もなく9時の消灯に合わせて病院から自宅までまたバスに乗り帰ります。
あんなに優しい叔母の口からは、あんたは、役立たず❗️って毎日、罵られ、疲れきった体や心には反抗する気力さえありません。
そして、家に帰っても、温かいご飯もありません。
待っているのは、不安そうに 見つめるきょうだいの顔です。
いつも、そこには、親はいません。
帰って、ご飯を作り、みんなで食べて寝る、、
勉強なんて、する暇なし。
こんな生活が、3週間近く続きました。
これが、私の人生ノートの中の最初の介護です
そして、このノートにはまだまだ、介護がつづくのです。
今回は、叔母の介護生活に少し触れました。
術後、叔母は、人工肛門になりました。
そして、私に言いました、半年で死ぬから。
中学生の私には、衝撃的な話しです。
しかし、半年後
いちごが食べたいって叔父が買いに行きまして一口、食べて人生の幕を下ろしました。
人間は、肉体、食事、排泄、カッコ悪い、自然体、ありのまま、受け入れる、まだまだあるかも知れないけど、中学生の頭は、色々、受け入れるにはハードルは高かった。