こんにちは、学生団体CORS Projectです。
今回は「優しさ」「他者との関わり」「関係性」からボランティアというものを捉え、ディスカッションをいたしました。
ご覧ください。

1.ボランティアにおける「優しさ」について
・参加者に対して、どのような種類の「優しさ」をもって接するべきなのか、わからなくなる時がある。

全てを受け入れることが優しさなのか、きちんと注意することが優しさなのか。

上記に対して
O1
:目的や環境に応じて必要とされる優しさは変わってくる。一概に「これ」というものは存在しない。

O2
:自分の思う優しさとは「誰かの役に立ち、誰かが困っていることの解決につなげる」というボランティアの目的そのものだと思う。

O3
:「かわいそう」という言葉は、優しさと傲慢さが紙一重であることを表している。

O4
:自分の行動がもたらす結果を完全に予測することはできない。だからこそ、「考える優しさ」というものに重きを置くべきだ。

O5
:結果として功を奏さなくとも、自分で考え抜いた行動の結果なら良いのではないか。

2.「自己責任」の捉え方について
・「自己責任」という言葉があるが、その概念が及ぶ範囲は果たしてどこからなのか。

上記について
O1
:社会においては、そもそもスタートラインが違う場合がある。セクシュアリティのような問題を自己責任にするのは如何なものかと思う。

O2
:自己責任とは「自分で判断する」ということ。
  ボランティアで例えるならば、何か問題が起きた場合、主催側だけでなく、ボランティアを受ける側にも自己責任がある。
 主催者だけが責任を負うわけではない。

O3
:「障がい」の場合、絶対に自己責任だと決めつけることをしてはいけない。

O4
:(O3に対して)障がいのような「なりたくてなったわけではない」というものに対して、「自己責任」は生じるのだろうか。
   社会の仕組みが「全員平等」「全員一律」というものを生み出しているように感じる。だからこそ、常識や当たり前からはみ出る人に対して、「なんで(みんなができることが)できないの」という考え方になり、その結果、差別や排除などの諸問題が起こるのでは。
 また、便利な時代だからこそ、なんでもできる環境が整っており、それゆえ、何かを「なんでやらないの」という考え方が発生しやすいことも諸問題を引き起こす要因ではないだろうか。

O5
:(O4に対して)「日本国憲法」においては、「個人の尊重」が最上位の価値と捉えられている。ゆえに、「法の下の平等」とは、「個人の尊重」を達するための相対的平等であり、「全員の一律平等を目指す」という考え方は正しくない。
ただ、社会が便利になることで「なんでできないの?」という考え方が広がったり、同質性が拡大したりして、異質さの排除を引き起こしていると思う。

3.ボランティアにおける「関係性」について
・とあるサロン主催者の話
「自分は地域の人々との関わりの場を増やしたいと思い、サロンを始めた」
・都心部だと、地域の人々が集まってコミュニケーションをとる場所をあまり聞いたことがない。
・サロンのような集まりを持つことで、地域活性化のきっかけになると考える。

上記について
O1
:都心部に住みながらそのようなアイディアを持てる想像力は素晴らしいと思う。
 
O2
:「世間」と「社会」というのは似ているようで異なる。
 前者は、結びつきが強い、後者は、世間を取り巻く広範なもの。
 現代、社会の結びつきが「よくわからない」ものになっている。特に都心部で。
 だからこそコミュニティというものは重要なのだが、「既存の結びつきが強すぎると、その結びつきの中に外部から人が入るのが難しくなる」という問題もある。
 だからこそ、組織に対して信頼感を持ちながら、結びつきを「保っておく」という捉え方が良いのではないだろうか。

O3
:地域コミュニティがあれば、災害時などに機能するはずである。

O4
:地域コミュニティが既存の地域もあれば、過去のものと化している地域もある。
 地域コミュニティを「継続する」のか「新規構築する」のかは見極めないといけないと思う。

O5
:コミュニティの中には色々な人がいる。
コミュニティの全員と仲良く、というより、コミュニティの中で「信頼できる人と繋がる」という考え方が良いのではないだろうか。

幅広い視点から、ボランティアを考えましたが、続く②では現代を生きる上で不可欠な「発信」という行動から、ボランティアを考えました。そちらも是非ご覧ください。