(続き)

 

学生を覆っている空気に2つの観点から違和感を覚えている。

①極端な二元論に走ろうとすること。白か黒か、○か×かしか目指さない。色々な意見を聞いて、落としどころを探る過程がなさすぎる気がする。

②ツイッターに「ゆるふわ全体主義」という言葉があったと聞いた。みんな仲良くあればよく、真剣に意見をぶつけ合うことすら「ゆるふわ」が否定しているのではないかと解釈している。これでは学生に活気が生まれず、個性も尊重されない。

 

Q:①②についてどう思うか?

 

O1

:①について、質問者に同意する。二元論は極端な発想で危険なものだ。そもそもディスカッションとは、どちらかを言い負かすためのものではなく、よりよい答えを出すための「歩み寄り」のようなものではないか。

それなのに、○側の意見を持つ人は×を○にすることばかり考え、×側の意見を持つ人は○を×にすることばかり考えている気がする。

 

O2

:②について、人間は「恐怖」を持つ存在だと考えている。

「恐怖」があるからいじめをするし、同調圧力を加えるし、学歴の差を際立たせるのではないだろうか。

そしてその「恐怖」が、個性を否定することにもつながっているのかもしれない。「ゆるふわ」はそうした個性の否定とも連動しているように思う。個性を持つのが否定される結果、みんなが「ゆるふわ」じゃなければいけないみたいな。

今の時代、皆が皆、自分が傷つくことを避けるために、自分を否定しているのではないだろうか。自分であることを肯定しないと何も生まれないのに、自分であることのジレンマを抱えている。真面目な議論を排除し、他人と異なる考えを持てない状況になっているとしたら残念だ。

 

O3

:O2を受けて

「和やかな雰囲気」が「ゆるふわ」の本質で、堅苦しくない雰囲気から生まれる発想もあるのかもしれない。でも、ここで言う「ゆるふわ」は、そういった「雰囲気」「人柄」とはまた違う気がする。個性が否定され、他人と違う考えを持つこと自体が否定される空気感。それが「ゆるふわ」だと思う。

 

O4

:自分にとっての「ゆるふわ」とは、「関係性」のことだ。例えば、先輩後輩の間に過度な区別がなく、気軽に話せるということ。

議論が真面目に行われるのは前提の上での「関係性のゆるふわ」が「正しいゆるふわ」ではないだろうか。

 

O5

:昨年の大学生活を振り返って思うのは、「ゆるふわ」というものが情熱を簡単に冷まそうとしてくることだ。いくら真面目に議論しようとしても、学生全体を覆っていると考えられる「ゆるふわ」が障壁となっていた。情熱を持てば持つほど「ゆるふわ」に目の敵にされていたように思う。

このプロジェクトの良さは、全員が熱さを共有していること。それがこの一カ月の活動が楽しかった要因ではないかと思う。

 

O6

:周りに情熱がなくても、熱い思いを持ったコミュニティーで生きていけばいいのかなと思う。そこに来てくれる人とは熱さを共有していけばいい。

熱さがない人にはどう伝えるかが問題となるが、熱い思いを持った活動を続けていけばいいのではないだろうか。熱さがない人に活動を否定される必要はない。続けていけば、伝わる人には伝わる。

 

 

 

議論の終わりにもう一点指摘しておきたい。学生が他人に興味を持つことが少なくなっている気がする。

例えば、「~を知ってる?」と聞いても「知らない」で会話が終わることが極端に多かった。わからないなら、疑問を持ったなら、相手にその内容を詳しく説明してもらおうと思わないのだろうか。それ以外にも、自分の興味分野以外の会話は知ろうとすら思わないような気がする。自分が知っている範疇から外れた会話にはあからさまに興味を持たない学生が多い気がする。そこには必ずと言っていいほど、「熱」がない。

その事実から言えることとして、「熱」と「興味」は連動しているということではないだろうか。

自分が取り組んでいるテーマがあれば、それを知ろうとする「熱」が生まれる→そのテーマ周辺の知識にも必然的に興味が出てくる→色々な分野の人の意見に興味を持つようになる。こういうプロセスだ。

簡単に正解にたどり着ける世の中になった以上、効率性が重視され、他人への興味がない状況は続くのかもしれない。でも、我々が一カ月やってきた取り組みによって、メンバーそれぞれの人生は、確実に豊かになった。色々な意見に触れ、色々なことを調べる機会になり、色々なことを考えてそれを自分なりに生活に生かしてきたからだ。情熱を持つことは、本当に有意義なものだと思っている。

 

 

 

最後に、このプロジェクトが発足してからの一か月間を振り返って一言ずついただきたい。

 

O1

:情熱を持って自分の意見を言う場を増やしていくことの大切さを学べた一カ月だった。

日記、おすすめ企画などを発信し続けることの大切さを実感している。これからも頑張っていきたい。

 

O2

:自分は「省エネ人間」なので(笑)、情熱を持って取り組めることは一部なのかもしれない。その点では、何にでも興味を持てる方とは違いがある。でも、自分の場合は一つの出会いなど、自分が得られたものから幅を広げていくという考え方をとっている。

そして、最近自分は人間の「恐怖」に興味がある。正しい情報を得ることで、その「恐怖」は消していけるのだと思っている。

 

O3

:この取り組みをずっと続けていきたい。本当に大きな意義があった。

そして、35年前の今日、自分の尊敬するリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と述べた。(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、永井清彦訳・解説「新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説」岩波ブックレット(岩波書店、2016年)、p11)

この一カ月で話した色々な社会問題の歴史をしっかりと検証し、我々の世代が同じ過ちを繰り返さないようにしたい。新型コロナウイルスに関連して、深刻な差別が起きたことを踏まえると、ヴァイツゼッカーの言葉の重要性をより深く感じられる。

本日話した学生についての話題も同様だ。学生の中に個性がなくなれば、生まれるのは異質なものを「排除」する動きだ。そこに我々が目を閉ざしてはならない。その状況に目を向け、多くの人が自分らしく生きられる社会にするために、これからも考えていきたい。