(続き)

 

(先述の事柄に関連して)

・「自分の言葉で表現する」ことができない人が多いのではないか。

   ↓

 特に周囲の大学生において明白。

 

・大学生の活気がないように感じる。

 原因としては以下のことが考えられる。

 ・自分の表現ができない=自分の意見を持てない

 ・議論をしない

 ・そもそも議論の仕方がわからない

 ・自分の意見を持つ、ということが抑圧されるような社会的構図

 ・そもそも自分の意見というものを持っていない

 

Q 上記に対してどう思うか?

 

O1

:ディスカッションの経験を積める機会は、間違いなく少ない。それゆえ議論ができないのは当然。

 

O2

:昭和の学生は「学生運動」など、主体的に行動していたイメージがある一方で、現代の学生にはその主体性が欠けている。

 理由としては、インターネットが身近になったり、生活が便利になったりして、昭和の時代にあった「常に考える環境」「考えるという習慣」が人々から失われたことが挙げられる。

 

O3

:(O2を受けて)昔は便利なものがなく、考えることが不可欠だった。

 現代は便利なものが溢れ、それゆえ、作業の手間が減り、わざわざ考えるということをしなくても、あらゆることが可能になった。

 自粛期間前に「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 」という映画を見た。

 そこには三島と東大全共闘の学生たちがお互いに理性的、かつ相手に敬意を払いながら議論をする姿があった。

 →彼らは意見こそ対立すれど、ともに「日本を良くしたい」という共通の思いがあった。

  何よりも「熱」というものが、その議論にはこもっていた。

 三島と全共闘のどちらの思想にも自分は賛同できない点が多い。でも、「熱」というものがあったからこそ、当時の学生たちは、便利ではない時代にも考え続けられたのだと思う。

 時代というものが答えを持たなかったからこそ、彼らは考え続けたのではないだろうか。

 

 

O4

:現代の人々の同質性には、哀しくなる。

 全員がマネーゲームの参加者に見える。それが悪いとは言わないが、もっと自分というものを見つめ、大事にした方が良いのではないだろいうか。

 

O5

:いろいろな事柄に疑問を持っていないから、自分の意見を言えないのだと思う。

 

O6

:ドイツは、戦後の政策が功を奏し、主体的に考える人々が多い印象がある。

 日本は教育システムをはじめ、あらかじめ答えのある事柄に対し、その答えを出す方法を教える教育をしているが、それでは、予測できない事柄に対して、答えを出す力というものは育まれないのではないだろうか。

 →それゆえ、学生が主体的に考える力が失われ、学生の主体性がなくなり、学生の活気がなくなっているのではないだろうか。

 

しかし、我々の活動はそうではない。発足1ヶ月が経ったが、答えのない事柄に対し、考え続けるということができていると感じる。

 

Q1ヶ月経った弊団体の活動に対し、どう思うか。

 

O1

:私は自分のため(考えるのが好きな自分の性格にあっている、将来のために現在の自分の考えを記録したいという思い)にも、他の人のため(発信することで諸問題に悩む人の力になりたいという思い)にもできている。

 

O2

:自分の意見を言う場が欲しかった自分の希望を満たしている。

 また、議題に対し自ら考え、それを発信することの良さに気づき、この活動を続けていきたいと考えている。

 

(続く)

 

続く記事では、我々が考える、あらゆる「現代の議論の構図」並びに「現代の人々の構図」の問題点について考えていきます。

そちらもぜひご覧ください。

ご覧いただき、ありがとうございました。