言葉の意味を色々調べていると、
何が正しいのか、何が正しくないのかは、
時代によって変わっている。
平安時代の頃から日本語は美しいけれど、
文字通りの言葉を現代人に伝えても、
誤解されたり、真っ直ぐ伝わり難かったりする。
言葉が乱れていると批判する人がいるが、
それについて語る、その人の心もまた乱れている。
自分の中の正しさを曲げられないのか、
他の人の間違いを受け入れられないのか、
答えをひとつに押し込めようとしている。
人間誰もが間違いを犯す。
そんなのもう使い古されたくらい、理解りきったこと。
自分の間違いを棚に上げ、
他の人の間違いばかりを攻め立てる。
あなたも私の考える正しさでなければならないと攻め立てる。
雑な言葉でもいいじゃない。
誤解した言い回しでもいいじゃない。
間違いなんて自分で気づくまで、
間違い自体を認識できないんだもの。
乱暴に見える言葉でも、
何を伝えたいのか目を凝らせば、
すうっと本心が視えてくる。
誰のために話しているのか、
無関心なのか、
親切の押し売りなのか、
心からの思い遣りなのか、
言葉の先に聴こえてくる。
その人が慢心に溺れているのか、
自然体で飄々としているだけなのか、
言葉を重ねれば重ねるほど、
語るに尽きる。
下心も真心も、
ふれ合っていれば、
互いの温もりが近づいて行く。
熱すぎると感じるのなら、
少し冷めるまで待ってみよう。
冷たすぎると感じるのなら、
少し温もるまで待ってみよう。
どっちが熱いか冷たいか、
触れ合った本人にしか、分からないんだもの。
触れ合う機会を待ってみよう。
ふれ合えなくても悲しむ必要はないさ、
君に出会うのを心待ちにしている人を探しに行こう。
地図も指針も必要ないよ、
その瞬間に理解るから。
