ブログ友達のふにちゃんです。
ふにちゃんが感じること、わかるなあ~☆って。これまでも共感すること多かったんだけど、今回もそうだなあ~。。。というのと同時に、自分のことにも当てはまるなあ、って。
これまで学校ということころに通ってきたわけですが、
小学校の高学年かなあ、、、昔図工ってありましたよね。
学校の中の好きなところで好きなものを描いていいという授業がありまして、
そこで竹がある下に1輪のピンクのバラがあったので、それを描きました。
ただし、筆を使わない、という指定だったので、指に絵具を乗せて、指で描きました。
父の仕事の都合で、東京から大阪に三年生の時に転校してきました。(その前は幼稚園のときに大阪から東京)
で、他のみなとは、違う絵具だったんですよね。。。サクラじゃなかったw
緑が緑じゃなくて、ビリジアンwww
竹の下に咲いたバラの茎や葉の色は、持っていたビリジアンに近かったので、他の色と混ぜなくてすんで良かったです。
その色の選定もよかったのか、担任の先生に、「子どもさん絵の専門のところに通わせてはどうか」と言われていたらしんです。
10年くらい前に聞きましたw 遅いってw
また一年生から電子オルガンをやっていて、高校2年生のときに結構大きなオーディションに勝ち残っていたんです。
次は大阪大会とかだったんじゃないかなあ。。。
でもその日、日曜日だったんだけど、一泊2日の林間学校?みたいな行事がありました。
一生に一度、残るか残らないか、というか、自分のスキルがあがってきていて、当時のオーディションと相性が良くなってきていたのも実感していました。
だから学校をさぼってオーディション行くつもりだったんですよ。
だけど、クラスには、腎臓が悪くて一年留年していたS君がいて、これまでは参加できなかったけれど、今年は体調がましだから、S君にとっても人生で一度きりの参加だから、是非皆で!!!!と担任の先生がおっしゃいました。
命(病気)と引き換え。。。。
私は断念して、学校行事に参加しました。。。。
電子オルガンの先生や教室運営のスタッフさんたち、みんな驚かしてしまいました。
当日キャンセルでしたから。(当時の厚生年金会館だったんだよ💦)
「今年がどれだけ相性がいいかわかってるの????」って先生からも叱られました。
(おそらく審査員の先生とか、他に出場するメンバーのこととか、ご存知だったんだと思う)
当時は音楽や絵で生きていく、って、そんな馬鹿なこと考えるな!な時代だったし、ましてや女子だったし、、、、
母親はピアノをやっていた人なのでこの件は担任の先生に言いましたし、当日、担任の先生がすまん!と言ってくれたけど、
とんでもない取り返しがきかないことは解っていました。。。。
それで勉強にシフトして行くんですけど、そんな器用で無く、進学校だったので、入学時の成績はよかったけどそこまでついてはいけなくなっていました。でも音楽がある!って思っていたので、ダダ下がり。。。。
で、受験しても、親が認めてくれる学校は受からなかったので、懇願して1年浪人。。。。したけど2年目国公立のレベルあげてしまって、不合格。。。。現役のころでも推薦で行けた学校に一般受験で行きました。。。
何をやってもうまくいかないなあ、って思っていました。実家も両親の仲が悪くて喧嘩ばかりで、いつお母さんが出ていっちゃうのか、って毎日あまり眠れていませんでした。小さいころから。両親とも志望校に行けなかったので、勉強をしてくれると嬉しかったようで、高校が進学校だと嬉しそうでした。。。
そのままどうにか大学卒業して新卒でシステムエンジニアになって、、、結婚してDV離婚して、一念発起して大学院行って、、、、修士のころに父が亡くなって、、、、、(大学関係の人は当時の助手の〇〇先生のみ。彼はひとつ年下なんですけど、情に厚い人でした。それから地方大の教員になり、今は東京の〇〇大学(国公立)の教授されています)
父の葬儀のことだったり、保険金の事で実家が揉めて、嫌なところいっぱい見て、それで強い鬱になりました。
シンプルに命を偲ぶことより、それで発生するお金のことに必死な人たちにとっても傷つき、父の命やなんというか必死な人たちの品性というか良心というか、そのようなものをいっぱい喪失して、初めての激鬱になり、退行しました。
子どもたちがまだ小さかったころです。。。
それを振り切るように親も親せきもいない京都に来て、、、、、私が多忙であったり、子どもたちが不登校になったり、、、、
私は、大学院についていけないことをコンプレックスにずっと思っていましたが、こうして振り返ってみて、ふにちゃんのブログを見て、命を考えない言動や競争の行為や大人の考えの押しつけについていけない自分がいることが解りました。。。
だけど、それ、悪くないと思うんです。。。
指導教官は本当に暴君だったし、指導教官の師匠が(当時の専攻長)、急逝なさったあとも、そっちの研究室の予算周りをヘルプしました。。。それはいいんだけど、仕事なんだろうけど、そのままちょっと優秀な学生を引き抜いて、、、みたいな。。。
凄い世界だなあ。。。って思いました。。。。そのままあの大学で研究室を大きくしていくには、そのような戦略も必要だったのだと思います。。。だから私は落ちこぼれるべくして落ちこぼれたんだと思います。他の大学から連れて来た学生のほとんどが修了して、私の代が、その最後の代。一個下からは、学部からの生え抜き。
だから、、、、なんというか、、、ついていけなかった自分の能力の無さはコンプレックスだけど、その業界で生きていくのに、他人の人生を翻弄したり、決めたり、する仕事って、どうなんだろ、、、、って思いました。。。
ふにちゃんみたいに、すっきりしたまとまったブログじゃなくてごめんなさいです。
それだけ長い間、絡まって、自分を親や大人の軸に合わせてきた人生だったからだと思います。。。
CASIOPEA LIVE at Roppongi PIT INN on May 9, 1983
をyoutubeで聴いています。映像はないので音だけ。
高校生だったし、当然、ライブハウスなんて大人なとこ、許してもらえるはずもなく。
音で楽しんだり、耳コピして楽しんでいたなあ。。。
絵も音もいつからか許して貰えなかったなあ。。。
もしかして、昔の人ってそうなのかなあ???(私や私の世代より上の人)
サラリーマンになるように矯正的に育てられちゃったのかなあ。。。。
今では、聴くのはいいけど、また自分で楽器をしようとは思わない。
あそこまで上がれないと思うから。あの爽快感は感じれないの解ってるから。
それに、、、思い出すから、、、
オーディションに行かない、って判断したの、そんなに周りから叱られることだったのかなあ。。。
親にはみなさん「なぜ〇〇じゃなかったんですか!」とは言わなかった。
ん~。。。。思うように人(子ども)が動かなかったら(従わなかったら)すんごい怒る人ばかりだった????
誰も私の人生に責任取れないくせにね。なんか、、、、しんどいなあ、、、、
子どものころから幽閉されている感覚が抜けないんだよね、、、
好きなものを好きって言っちゃいけない、って、、、変だよ、、、
嫌なことを嫌っていうのも言えなかった、、、やっぱり変だよ、、、、
私は、、、、どうしたかったんだろ、、、、
今ではもうわからないんですよね、、、、
それも恒常的な鬱の原因かなあ、、、、
今は急性で色々あって、意欲が沸く体力も精神力も無いんです、、、
RPGみたいに魔法とかポーションとか使えたらいいのにwww