目を向ける方向が変わってきた② | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ま~ちゃんといっしょ ~

ちょっと引用しますね。

 

一つ考えられるのは、だれかから不当な扱いを受けたとき、私たちの脳は復讐したいと欲するように条件づけられているということだ。(中略)
復讐は脳の神経回路に刻み込まれた反応だという仮説には、さらなる証拠がある。侮辱されると、文字どおりの意味で復讐欲が喚起されるらしい。人が飢えやそのほかのものを満たそうとするときに活性化する脳の左前頭前野が、同じように活性化するのだ。(P.94-95)

なぜ復讐に喜びを感じるのだろうか。よく言われるのが、因果応報、ざまあみろ、という感覚だ。実際、正義のなかには「報復的正義」という特殊な形態の正義が存在すると考える人がいる──他人を(不当に)苦しめた者は同じように苦しむべきである、この正義が成立していないうちは宇宙の帳尻が合わない、という考えだ。この考えに立つなら、復讐がもたらす喜びは、正義が行われるのを見る喜びということになる。(P.97)

「正義」は1種類ではない

 本書が面白いのは、さまざまな形の「正義」を、ありとあらゆるケーススタディを用いてわかりやすく解説してくれるところだ。

「報復的正義」以外には、たとえば、「分配的正義」と「矯正的正義」があるという。この2つの正義は、アリストテレスが定義づけたものだ。

人が何かに対して不公平だと感じるとき、それは分配的正義を問題にしていることになる。パイをどう分けあうかを議論するのが分配的正義だ。自分に切り分けられたパイの一切れが他者の一切れより小さいとき、私たちは「公平じゃない」と文句を言う。
それに対し、切り分けられたパイのサイズとは関係なく、だれかが自分のパイを奪えば、私たちはそれを返してほしいと思う。「奪ったものを返せ」と要求するのが矯正的正義だとアリストテレスは言う。私が被った損害を賠償しろと要求する定義だ。(P.98-99)

哲学は考える技術だ。哲学的な問いは、自分自身と世界について考えること、より深く理解するよう努力することを私たちに求める。(P.24)

 

ほ~。。。。(@_@。

 

 

そこでおすすめされていたのが、この書籍。

 

 

 

関連してこの書籍

 

大学で心理学と哲学、修士で学部の病児心理や発達心理、臨床心理を学びましたが、それでももう一度ここに来て哲学してもいいかな、少なくともこの苦しみが学によって昇華されるのなら、、、と思いました。

 

noteも見つけました。

 

 

 

 

誰しもが理不尽な目に遭って、そこに主従があって、周り(誤解を含む評判←風評といえばいい?)の目に多重に苦しんだ人いっぱいいるんだね。

 

それを報復じゃなくて、学びのきっかけにして、昇華するというか、「だから私のこころがこうなっても仕方なかったんだ」「こう捉えると楽になる(ケアになる)んだ」ってなっていることが素敵というか、尊敬だな、って思いました。

 

そうだった、、、、かつて離婚裁判したときも、弁護士さんと知り合って、ご自身がお持ちの知識を、どういう方面にどう使うかを拝見させてもらいました。裁判官も書記さんも。同じ弁護士さんでも専門が違うと、こうもけんもほろろみたいなことになるんだ、も体験しました。

 

ご縁があった弁護士さんと法律扶助協会(2006までだそう。今の日本司法支援センター(愛称:法テラス)に引き継がれているらしい)もとってもお優しくて、経緯をしっているから、「(分割で着手料と報酬を払うこと)もし今回は払えないってことでも是非そう言いに来てくださいね。その時の事情で払えなくても対応します。お顔をみたいんです。元気にしていらっしゃるかを見たいから。(その時にこまったことがあればいえるだろうし)」って言ってくださいました。本当にこちらの事情に合わせた声かけをしてくださいました。救われました。

 

知識などを、どう使うか、なんですよね。

 

そこに愛はあるんか????

だと思いましたww(そこに行く?w)

 

いつも見にくい読みにくいブログを書いてしまってごめんなさい。

頑張って文書作ってるんですけど、まだまだなのは自覚しています。

認めるのは辛いけど、今私はとんでもない状態のようです。(息子曰く)

すぐ症状出てくるし、パニック発作もでるみたいです。

こらえているつもりなんだけど、、、出ちゃってるんですね。

ごめんね、息子君。。。。