日差しが届いたので南窓のカーテンを開けて室内日向ぼっこしています
だけどこの時間なので日の当たる体が部分的に熱くなってきました💦
ちょうどいい感じの日向ぼっこに調整しなくちゃ💦です
blogちょっとあいてますね💦
はい、安定して体調が悪いです。この環境にまだ慣れません。すぐそばが山なので寒暖の差が予報よりあるようで結露が凄いです💦
ということは気を付けないとカビるんるんがやってきます。喘息もちなので大敵なんですが、身体が動かないのでカビるんるんのはやさ(結露のはやさ、寒暖の差、地球時間の速さ)に追いつかなくて、休んでいる間に調子が悪くなってきます💦
助けを求めるの下手、人様が怖い(自分以外のペースに今は本当に合わせられない)、などの理由でどうしようもありません。
ただただ回復を待つしかありません。。。
あのドラゴンボールのヴィルス様がウィス様に地球まで連れて行ってもらうときにかかる時間を聞き(確か40分くらいだったかと…誰か正確な時間教えて下さいセリフ忘れちゃった💦)『遠いな~💦アニメ二本分か~💦』って言ったのを思い出します。40分どころじゃないよね、春まで、って。。。
だけど昨日は冬至でした。日照時間がこれから夏至まで長くなっていきます。これは鬱には有難い要素。気温も気圧もダダ下がりな中、日照時間(これがいちばん周期が長い)が秋分から短くなる一方でしたから。
で、この数日、なぜだか本来の自分ってこうなんじゃないか、みたいなことを感じます。
長子で生まれたのもあり、誰よりしっかりしていなくてはなりませんでした。
父親は末っ子、母も6人きょうだいの第4子、潜在的に長子に頼る構図がありました。
当然私のきょうだいは下に弟がいますので、家族で私の感覚が解る人はいませんでした。
だれよりしっかりして誰より頭良くて誰より頼れて誰より、、、、を求められ続けてきたように思います。
幼い頃でさえ、誰かに甘えた記憶がないのです。心配かけるから言わない事もいっぱいありました。
自分から自慢もしません。家族の自慢もしません。
父はきょうだいの末っ子ですが、唯一育った男子でした。祖母は父が4歳の時に妹を出産した時の事故で亡くなりました(時代ですね)。
祖父は父が19の時に。以来父が大黒柱。
母は第4子ですが、きょうだいではじめて高校に進学したそうです。それ以来企業に就職することができ、家の内外という軸でいうと外貨獲得で家を支えてきました。
同じように10代で甘えていなかったんですね。。。
父が亡くなる前、『家(実家に)帰りたい』とせん妄の中で言いました。
本心だったと思うのです。
当時の私は理解できませんでした。なんなら今日まで解せませんでした。
けれど、加齢でだんだん本当にいろんなところにガタがきて、父が亡くなった歳に近くなってきて、幼い頃に甘えていなかったから、還りたくなったんだろうな、、、もっと甘えたかったんだろうな、、、って思いました。
当時は、とっても傷ついたんです。『お母さんと出逢った事も私と弟が生まれたことも、それから生きてきたことも全部父には全く価値が無かったんだ。。相当な嫌々だったんだ。。。記憶から消えるくらいなんだ。。。』って。
あの時、私はある意味タヒにました。
私の記憶からも欠損した感覚でした。
だけど急に解せたんです。
昨日、東北大学のクリスマス研究室配信に参加していて、、、、ん~、、、、先生のところのプロジェクトに巻き込まれてしまいたかったけど、なんだか潜在的にリジェクトされているような気がしました。先生がたよりもう10歳くらい年長だしね。なんだかんだ言って若い子向けか、あるいは先生と同年代の人までなんだな、って。
急に歳取ったなあ、、、というかふるい分けられたなあ、、、って思いました。痛感しました。
これまでの努力なんだったんだろう。
これから、と、努力している事(無理していること)なんだ、ったんだろう。
って。。。。
だけど、研究者さん、ってね、本当に物理的な地理を遠く旅するんですよ。あっちこっちいく。
国内外問わず。リモートで仕事出来るけど、身体はどこにいっても起点に向けて配信する、みたいな感じ。
私ね、幼い頃から長子としての、だと思うんだけど、感覚というか無理していることを理解してもらえなくてね、
なんというか、、、たぶん両親と同じなんだけど、家にいたかったんだと思う。
勉強が良くできるようになれ←塾や遠くの私学とかに通う←海外に常駐する
習い事が良く出来るようになれ←オーディションとか遠くなる← 〃
つまり、、、なんというか、、、お金をかけて遠くに行く、、、、
うまく言えないなあ、、、、出稼ぎみたいな????
親に強いられて迎合してきてなんなら世間の評で無理矢理競争して若いうちから外に出て、、、、
、、、、ってしてきたけど、、、、
本当は十二分に甘えてから旅立つんじゃなく、早くから出て行け!思い通りになれ!ってされたんだよね。
だから結婚して子どもをうんで一緒に居たかった。。。
だけどご縁は、やっぱり生育上寂しがり屋の長子以外の人で(かつての義家族も)、
私一人がやりくりして、やっぱり子どもたちとゆっくり一緒に過ごせる環境に無かった。
こき使われまくって折れて離婚したけど、そうしたらそうしたで、離婚に対する偏見があって、
実家には寄りつけず、子どもたちを預けてブラッシュアップしてシンママでも雇ってもらえるくらいにならないといけなかった。。。
そんな中の大学院進学でした。。。。
で、博士課程の単位取得は全部して、満期まで学問して、で、なんというかたぶん本当に長きにわたって無理していたというか、
本来向いている自分と全くの乖離を長きにしていたせいか、
強烈な鬱になって、、、、(本当に強い鬱は自分が生きていこうとしなくなります。退行します。)
子どもたちも見事に学校でいろいろ虐められて(背景に教育競争とか何かと社会競争があった)不登校。
だけど、そのとき、『ずっと離れていたから今一緒にいる時間なんだな』って思いました。
それから色々あって、、、、社会の当たり前(国の政策?)に迎合しなくちゃみたいな潜在的なとても大きな圧があって。
若い頃はガンガン働け、ってなって心身ともに折れて、で、ちょっと復調してきたら、年齢でそんなに参加しないでってなって。(老人の催しには60歳以上とかで参加資格が無い)
なんなの???このラグというか隙間というかジレンマというか乖離というか、、、、
いつだってずっと自分なんて置き去りにしてきた。生きるために。
だから本来の自分とか言われても分からないし、これからだけど興味をもったことにジャンルによっては年齢制限されているし性別制限されてるし、、、
見えない壁、見えない線引き、見えないタイミング。。。。
行政とかさ、法律で厳格に縛るんだからさ、だからこそこんな零れ落ちるというか生きにくい人をたくさん作ったり、少なくてもそこに負荷が大になったらダメだよね。。。
あーあ。怖いな、、、普通、って。
なんかもうね、、、、本当に息するのもしんどくて。なんなら深く息ができなくて。ずっと緊張して生きてきた癖だよね。。。
blogもこんな深層心理のような壮大な時間がかかった話とか、仰々しいというか、堅苦しいというか、そんな話題読みたい人いるのかなあ。。。って思ったら、全然書けなかった。
自慢も嫌だしね。。。
どうしても足りないところに目が行く人なんです、私←そうつつかれてきたからかな。。。。
勉強も偏差値70には一回だけ化学がなっただけで、他は人生で無いです。
国家資格も情報処理技術者だけ。
英語はこわくて受けてないし、
電子オルガンも指導者養成コースに行くときに14歳だったから周りのおねえさんに『18歳になるまで通えないのになんで受けにきているの?』って集団で言われて怖かったし、
父親に物理はできるはずない、って言われて、本当についていけなくなったし(今ならわかるきがする)、
数学も大学数学になると難解だし、
システムエンジニアも面白かったけど時代のせいか、20代で寿退職しないと、なんだか痛々しくかかわられるし(残っている先輩方)。
シンママで実家頼らず大学院に行ったら色々不自由で(当時は預けるところなかったです。土日とか病児とかね。あと国内外出張とか。)。
そういえば、就職氷河期の時代の人、人材として救う策、継続出来てるのかな。。。。この国って新卒好きだよね。。。あと猛烈なキャリアアップとかさ。。。(出来ないようになってるんだけどさ)
なんだか国のある意味の嘘を真に受けて、結果フォローがありませんでした、って。。。。
まあとにかく。長年解せなかった父の文言。
だから私は忘れる事を嫌悪しました。
だから勉学を今でも続けているしなんならチャレンジしています。
だけど、
解せた瞬間に、
『忘れることがあってもいいのかもしれない』と父を許せました。
父の人生を、父の寿命を、いろいろ許せました。
そのせいで、いろいろなことを矯正(強制)されてきて、その癖がずっと継続してきたけど、
やっと、ようやく、父がなくなって、20年が過ぎてやっと、
『もろもろと、、、もういっか』って思えそうな気がします。
周りのおとうさんっ子というのも辞めてほしかった💦
変なblog。。。すいません💦