堰を切ったように、という言葉があったように思います。
まーちゃんが本当に文字のままに突然旅立ってから、きっと喪失感が過ぎて、ぼーっとしています。フリーズしているんですよね。泣けないし、悲しめないし、、、もとい、感情を深層の自分が止めているのだと思います。とんでもなく深いから。
父をなくしたとき、まだ子どもたちはうんと小さくて、シンママで親とは別居で、それでだんだん父が悪くなっていったから、保育園に預けてアルバイトして、保育園に事情を説明して大学院に行って、病院に行って。。。父の方はどちらかというと父の旅立ちを受け容れられないで錯乱していた伯母たちや母のサンドバッグに成りに行っていた感じです。
(↓ヒーリングミュージックです。貼ったらロシア語💦)
その時も感情はフリーズしていて(先に感情的になられると生育上の問題から(まあDVだったんですけど)フリーズするようになりました)。あれだけ暴君だった父が衰えて、「いつか大人になったら殴り返してやる」という変な希望がなくなり、周りには勝手にお父さん子と決定づけられ、とっても複雑な状態だったので、感情的になるというのは感情の層が一つであるから、それになれなくて、お通夜もお葬式も初七日も四十九日になるまで毎週(なんで毎週してたんやろ…)おつとめして、、、、遺産というほどのものはないけど、まあ生命保険の行き先が、なんだか汚い感じがして、親戚でもめて、、、もう何もかもが嫌で、、、、
初めての大きな鬱になりました。そんじょそこらの鬱じゃありません。身体がだんだん退行するんです。本当に幼児化するんです、物理的に。眠れないから始まって泣いてばかりになって飲めなくて食べられなくてやせ細ってトイレもいけなくて。幼子を二人抱えてそのような状態になってしまって、本当に子どもたち、よく生きていてくれたなあ、って思います。
本当に大変な時に、正体が顕わになると私は思っているので、その様を見せつけられた私は、更に実家に近寄らなくなりました。実家にいた弟は、ただ男子というだけで、色々受けて散財してしまっただけで、面倒なことは全部母がしてい
ました。それでも弟が大切な母。。。よくわかりません。
だから、感情的な人、本当にダメなんですね。嫌悪を通り越してなんというか自分の中で断絶しちゃうんです。
だから、チワワのまーちゃんが突然旅立っっちゃった時も、どこか自分が一番崩れたらいけない、って、絶対それだけはダメ、ってしていたんだと思います。本当は素直に悲しんで泣きたかったんだけど、、、、それは子どもたちにさせてあげました。かつて自分が子どものときに出来なかったこと。精神医学というか発達の上で、その方が医学的にも健常だと思ったから。自分の生育を振り返って自分が置かれていた環境がオカシイと自認しているから。
だけど、、、、それって、、、、ずっとずっとずっとずっと、、、永遠に辛抱しているんですよね。自分を解放なんてしたことない。ちょっとでもしようもんなら我儘って烙印おされて、親の意のままにされていたので。
それでもさっきは、blog友達の竹さんの記事を拝見して、まーちゃんに対する感情をちょっと解放してもいいのかな、って思ったら、ヤバイ状態になって、戻って来れそうになくて、家の事できなくなっちゃうから(まだ理想的なお母さんをしようとしてる…泣…とんでもない刷り込まれた癖だ…)、って、ヒーリングの音楽もちょっと今は止めています、、、
SNSが発達して久しいです。発達する前からインターネットというものが民間で使われるようになって(一般的にはiモードからでしょうか…懐かしい)、最初は面白かっただけだけど、そのうち危なく使われたり、誰しもが端末を持つようになって、発信できるようになって、本当に情報で溢れていて、流行の移り変わりも速く、多様という言葉で幅も太くなりました。。。
修士の時に『情報過多による信用劣化』の研究をして、それで検索とかフィルタリングとか、自分に必要のない負担になる情報から距離を置かないと人は潰れる、と、警鐘しました。自分で忘れていましたw
目先の新しいものにそりゃ興味がわきます。赤ちゃん可愛いしワンコのパピーだって可愛い、小鳥さんだって可愛い。。。他にも新しいインパクトのある出来事(WBCとか羽生君とか大谷君とか、、、、ほか、、、わかりませんw)には目が行くでしょう。
私は生来凝り性というか、セミプロくらい掘り下げてある区切りを付けないと次に行けない性質なのに、矢継ぎ早以上に早く情報が来るので、もうアップアップになっていたのだと思います。
そうして若いということを良しとする風潮の中では流行に敏感でうまく乗れる人が人間的にも質が良いというか、まだまだ若いと表現するというか、、、、とにかくいつしかそれが使命みたいに自分の中でなっていることに気づかなかった。。。
なので今、有限な人生と有限の体力の中で、何が出来るか、何が好ましいか、絞っているところです。多感ということは間口が広くてすぐ拾ってしまうので大量の中から、絞り込まねばなりません。。。
一方で、多感≒繊細≒敏感なので、なんとなくの違和感を大切にした絞り込み方が必要になってくるので、これまたうんうん吟味する(深く考える)時間が必要だと思います。
。。。。それが出来ないから、スッキリしないし、自分に不必要な情報や価値観が膨大なストレスになっていて、自分の中にまだ溜まっているので、本当に辛いです。。。まるで今のたんまりの贅肉みたい。。。。←でもほんとそう思います。。。うんとストレスたまっているんだと思います。。。
久しぶりに長文書いてしまいました。以前はそれでも「論文を普段読んでいるんだから全然短い」とエラそー?に思っていましたが、それこそ昨今のSNSに合わせて短いほうが人様は読んでくれる、と錯覚して、なんなら長くなるとごめんなさいするようになりましたw
言いたいことを伝えられる形にするとき、どこも削れない事ってあると思うんです。わずかな機微を大切にしながらだと余計にそうです。あ、なに正当化してるんだ???w
てなわけで、現時点で、5時半を回ったので、お洗濯あるので、書き終わりますね。←あー、唐突で嫌だ💦💦
乱文にもなりましたね。すいません。。。。