その感動の余韻のままに、「自分には何ができるだろう」って考えていました。これまでいろいろあったので、風評には異常なまでに敏感です。人様の理想通りに育てることが正解じゃないのに、人様の顔色をいつしか激しく窺うようになって、こころが壊れていきました。
こころが壊れると体も壊れます。今はそうでもありませんが、急性期は、玄関先で倒れたまま三日、意識が飛んだこともあります。そりゃ、子どもたち学校に行けないよね。よく生きていてくれました。そんな時期があっての徐々に回復しての今。特別、人様より秀でる事は出来ません。でも、何かできること、、、、何でしょう、、、、う~ん、、、、
今でも数学(次はおそらく物理の力学をすると思います。)をなぜするのか、、、、、
たぶん、昔の自分を助けたいんだと思います。母親とか大学時代の同級生のSちゃん。きつかったんですよ。。。
今でいう、マウントする人でした。
そりゃ幼い頃から美人で踊りが出来て歌が出来て頭がよくて、、、、だったと思いますが、
会ってそう間がないのに、「あんたにできるわけない」というレッテルをいろいろよく貼ってくれました。
皆の前で。
その時は、家庭の事情でアルバイトばっかりで(まあ滑り止めの大学になってやる気が失せていたのもあります)、出席日数があまりないし、一夜漬けでもなんだか専門科目は優とか良もらいましたけど、その子が知っている私は「すれすれ可」でしかない私、だったんでしょうね。
三年次になってその子は物理専攻に行きました。物理の方が好きだったみたいです。そこで実際の授業で、なんですが、数式は難解な数学を使っています。でも、誤差、みたいなもので、物理の論理としてはぶいていいものは、やっぱり「誤差」としてはぶかれたり、おざなりにされて、淘汰されていくようでした。
数学は、その誤差が、どういう誤差であるか、本当にはぶいていいのか、という事を証明してからしか、処理しない、、、というか、誤差に注目するので、なんというか、大雑把でないというか(物理専攻の人がすべて大雑把とは決して言っていませんw)、まあ、そんなです。
でも、そのレッテルを貼る勢い、、、いわばある種の力が強くて、私はその大きさ、つまり、雨の音の大きさを受け取る感覚に似ているのかもしれませんが、その勢いそのものや、どの時点でレッテルとしていいのかと自分に出す許可の凄さとか、そんなものにショックを受けてしまって、委縮していってしまいました。
そういうタイプの人って、唯我独尊なので、自分がいったんつけたランクやレッテルを修正することは、事実はないのですが、あのままの言われっぱなしの私じゃ嫌だと、ずっと、こころのどこかで思っていたんでしょうね、、、、時が経つにつれ委縮がちょっとずつ解れていくわけですが、その委縮が緩んだ状態の私に、『本当はそうじゃないんだ!』っていう栄養=勉強、を再びあげたいんでしょうね。。。
よく考えたら、35年くらい経っているのに、今でも相手が大学数学とか大学物理をゴリゴリやっているとは思えませんがwww
それでも、やっぱりあの時のショックが大きかった分だけ、忘れられないので、私はずっと勉強をやめられません。。。
ごめんなさい。。。。です。
いつか、気にならなくなったら、やめると思いますww
が、言われたショックの余韻が残っているうちは、すっと頭に入ってこないので、『まだダメか』『まだダメか』と自分に影響をあげながら自分を観察しているのだと、今日、ロピタルの定理の最終講義を視聴して、ウニウニ考えているうちに解りました。。。。
答えが出るのに、こんなに時間がかかるんですね~。。。。
という話です。
私は傷ついた分だけ勉強するw