当たり前を言葉にするんだけど、
こうして言語化できるまでが相当大変。
産みの苦しみ、ってこういうことなのかな、みたいな。
自己があって、家族(子どもであっても)とは、必ずしもペースが合うとは限らない。
そもそも激しく違うのかもしれない。
そこを、幼少期や、老年期に合わせるのだろうけれど、
それ以前に個に合わせることが慣例的になっていくと、
知らぬ間に息苦しくなっていく。
・・・それが解った。
私には私のペースがおそらくあって、
それを無視して何らかの意見を言われたり、
アドバイスを言われたりするとまず驚く。
その意見やアドバイスに相手が思う付加価値のようなものが強く反映されてると、
ますます驚く。
なぜか。
それはその自身が解決する事象であって、
私にはなんら関係ない、というくらい、
付加価値が違うからです。
なんなら私は殆ど付加価値を持っていません。
たとえば『この人は○○なんだ~・・・』なだけで、
『だから■■』というのは皆無です。
数学を好むのは、この『だから■■』という『だから』を推移律といいますが、
律というのだから、かなり頑強に、たとえば条例よりも法律にちかい資質で、
推移が証明できるから、客観的根拠があるから、に限られている用法だと明言しているからです。
一般的な、この『だから』は心理学でいう『自動思考』といいますが、
私はこの自動思考が当たり前ではない、当たり前にしては危険、
(なぜなら偏見や差別につながるから)
だと物心ついたときからかなり慎重に生きているので、
それを意識せずに堂々と自分こそが正しいかのようなスタンスで、
『だから■■』という、
意見やアドバイスを私に伝達してくる人の思考を、
酷く嫌います。
世の中にはいろいろ意見があるし、人それぞれ人生もあるけれど、
もしよかったら、~って、一考してみてくれない?
だとか、
~してくれると助かるんだけど、、、ならまだわかる。
けれど、前回のお局さまの事で書いた通り、
自動思考を断定しそれで相手に迎合させる
というスタンスは私は激しく嫌います。
そりゃそうです。支配やコントロール、誰がされたいですか????
嫌でしょwww
てなわけで解りやすく、あおり運転のような感じと表現しました。
あおっている人が正しいって誰が決めました???
だからといってあおるという行動に出ていいと、誰が決めました???
てな感じで、
『私はあおり運転をする人(物)とは時空間ごと乖離していたいんだ』と、
やっと言語化できたので、生まれてこの方この言語化に至るまでに、
自他ともなる自動思考から独立した思考で何十年単位で思慮してきたので、
自分のために明記してあげたい、そう思いました。
誤解したくないから、一見、???って思ったことも、
じっくりじっくり、別の意味が見えてくるまで考える。
それでも出なかったら(観察されなかった)相手は単一思考なんだと、
悲しく思う。
そうなった途端、なんだか冷めてしまって、
傷ついて、
寄り付かなくなる。
それだけの事。