新しいピグの行先「ピグニ湖」。感覚的で幻想的でそうして無機質なBGM。歩くと轍ができる。
様々な書き方してきたけど、ハイセンシティヴパーソン、つまり、感受性がすこぶる高すぎて、
何かとメンタルショックでそれが身体の症状にでます。
逆方向もしかり、で、身体症状がとても簡単刺激で一気に悪くなります。
赤ちゃんみたいだよね。
先日の内診、がん検診のために内膜を採取したんだけど、
なんで私はこんなに痛いんだろう、、、
と思っていたら、
やっぱり出血が止まらなくて、
そのまま月経のような違うようなそんな状態になってしまいました。
手術痕があって切開した部分は細胞が硬く委縮しているので、
その部分を触診されると激痛になるのだそうです。
当時わからなかった事、知らされていなかった事で、ずっと「わたしってオカシイんじゃないか???」
って自責していました。
異端とか変異とかマイノリティだとか珍しいとなると、差別されて色眼鏡で見られやすいですよね。
幼い頃に特に母親に受け入れられなかったこころの傷はこうして手術痕のように一生残るのだと、
強い痛みがずっとあるのだ、とも解ってしまいました。
けれど、ただつらいだけじゃないんです。
そんな機能不全な母子関係があることを、ずっとなんとなくこころの奥底で探していたら、
たとえば、いつか、なにか別のきっかけでも、
今回知り合った産婦人科の女医さんや精神神経科の担当医さんや薬剤師さんのように、
とても似た感覚、あるいは知識として持ってくださっている事実、と時空を超えて出会えて、
ずっとずっと自分が自分から乖離してしまった(自分を自分で激しく差別して攻撃する)事を、
「大変だったね。痛みのみならず、悩みのみならず、理解してもらえなくて、疎外空間のなかにずっといたんだね。」
という雰囲気でちょっとずつ癒して、
やっとやっとちょっとずつ乖離してしまった自分を同一のものとして認知できる、
そう、やっと、アイデンティティを確立する段階に入れる、、、
それが解りました。
今から12年前(書いて解った!干支が一周してるじゃん!驚)、
多忙すぎて仕事の結果をいくつももっていたのに何度も何度も権威的なコミュニティに全否定され、
ましてや人間性まで否定され(ハラスメント受けてたんだと思う・・・自覚したくなかったんだと思う。なぜなら先生や先輩にいじめられていると、みなさんがそうする人たちであると思いたくなかったんだと現実をまげて無理やり胸におさめたんだと思います)、
出張先の武漢@中国でメンタルが墜落しました。
それからすぐは怖くて半年から一年近くパソコンはおろか携帯も開けられなかった。
だれかとコネクトすることが怖くなってしまったんです。
因幡の白兎状態。。。。全身が重度のやけどになっていたのだと思います。
そんなときだからこそ、、、、
なんだか現実離れした不思議な出来事が多くありました。
無宗派なのに飛び込んだ教会。
迷える子羊のように迎えてくれて、やさしくしてくださいました。
どこの馬の骨とも解らない私を、「そもそもみんな元は得体のしれない生き物だったんだよ」と言って、
受け容れてくれた北村先生、
引きこもり一辺倒でお洒落なんて感覚もっているのか、みたいな状態で這いつくばるように行ったライブハウスで聴いた音楽、
言語じゃなく知識じゃなく、ただただ、感覚的に入ってきて、
なんだか涙があふれてきて、
ギタリストの山本恭司さんなんて「君がちゃんとここ(ハート)で聴いているからそうなるんだよ。」って私の感性の存在を認知してくれた。
あの時知り合った誰もが、世の中が求める優等生を強迫しなかった。
ずっと、よい娘として、
ずっと、よい妻として、
ずっと、よい母として、
ずっと、よい部下として、
ずっと、よい後輩として、
ずっと、よい先輩として、
ずっと、よい研究者として、
ずっと、よい大学院生として、
ずっと、よい人間として、
・・・・・・あまたの役割をすべて背負ってた。
なぜなら周りは逃げるから。
でも、それは言葉を変えると、私はこうなんだから、こうにしかできない、
という毅然としたというか、私ができな羨望の様相で生きていて、
私は先方の顔色をずっと窺って、
真にいいたいことは全く言えず、
迎合するしかなかったし、逃げる勇気もなかったし、
私が私のいるべきじゃないところで幽閉されて、
矯正されて、息もできずに、求められていることをコンプリートして、
AIロボットのように生きることが至上命令のような感じて、
かかわるすべての人に上に立ってもらって、
自らいじめられにいっていたみたいな。。。。。
私は当然普通の人間ですから、完全に何でもできるわけじゃありません。
なのに、相手の求めることすべてを完ぺきにできるようになるまで、
寝食を忘れて雑念を忘れて煩悩を決して、
相手に都合のよいような振る舞いをして、常に相手を立てるような、
そんな役割を、ものごころついたときから、ずっとしていました。
変な大事なされ方だったと今なら解りますが、
どこかそれはやっぱり他人事で、
私そのものがそうされていたなんて字ずらや意味は理解できるけど、
こころで解ったり咀嚼したりができないままに、
その疑問をつぶやいたら逆切れする人ばかりだったから、
もう自分の遺志(我)はいつしか捨てていました。
遊びもお洒落も楽しいことも自分の夢も、
いつしか解らなくなりました。
乾きすぎてぼろぼろになったスポンジのようなこころでした。
そんなとき、ホスピタリティ概念をもつ、人や場所とご縁があったようでした。
孤立してひとりになって近しかったはずの人にすべて去られて(私が彼らの役立たずになったからでしょう)、
そうしてどこかしら命令されたことが至上命題の人生からもドロップアウトしたとき、です。
あれから回復し、そこそこ動けるようになって、リハビリにした合唱もちょっと歌えるようになり、
幼い頃に親しんでいた音楽の感覚を取り戻して(楽典も歌唱も初見も鍛えられていましたが食えないと親に大反対され身動きがとれなかったので普通科に行くことが至上命題とされました)、
やっとやっと一週間のうちわずかな時間を自分に使えるようになり(ほかはいじめを受けて思春期心身症になった子のケアですから密に四六時中目の届く場所いる必要がありました)、
ちょっとずつ上達することができたようだし過呼吸がおさまっていたのでリハビリを続けようと思っていたら、
今度は健常者や定型発達や、かつての私の周りにいた感覚の人が多くいるコミュニティのなかで暗黙の役割を強いられて(反応すらシナリオ通りじゃないと途端に切れられた)、
心身じょうたいがオカシクなってきました。
結構最悪な状態の患者に戻ってきてしまっています。
でも反面嬉しい。
一般社会で権威的な人とは知り合えませんが、ホスピタリティがわかっている、履行できるスタッフのみなさんと顔見知りになれていることに気づきました。
世間話がちょっとくらいできるようになってきました。
ここならホスピタリティの概念を理解してもらえる。
パーソナルスペースを理解してもらえる。
尊厳を理解してもらえる。
それが総じて医療なんだ、と。ケアできる人たちなんだ、と。
彼らは聞くに堪えないこころをナイフでグサグサさすような語彙は使わない。
謙虚だし、相手の負担になることをできるだけ避ける。
そうじゃないと、痛みきって、来ている患者がよくならないことを知っているから。
だから本人に責任のない病気や障害でり患してしまったひとを忌み嫌わない。
病気も障害も特製も不得意も苦手も含めて私だと認知してくれる。
ありがたい。。。
だから体の状態はとってもつらいけど、こころは穏やか。
自分のペースでいい、世間のペースじゃなくていい、流行とかに敏感でなくていい、
そうやって恣意的に埋め込まれた価値観を一旦はずしてもらって、
私は私の素養をひとつひとつ最初から見つけ、拾い集めていく。
人からみたらごみかもしれない。
でも私を構築する大切な素養。
ガラケーだからへたくそなマロンのショット。
最近は使うのも体調不良でできないから息子が撮ってくれました。
私はモバイルより、若いころ必死で訓練したブラインドタッチができるキーボードのほうが、
キー配置を考えず、今もこうして画面だけ見て文字を打ち込めるスキルは保てているので、
やっとレッツノートのキーの感触に慣れたことは、
これだけ体調が悪くても、こころの調子はどうにか何とか保てているので、
行間は下手ですが、漢字を含めた文書を書くことができます。
これくらいは言語思考することができた。
嬉しい。
久しぶりに弱り目に祟り目で(そういえばこの数年メニエールとかいっぱいしたなああ)、
今回は急激に熱があがったので、関節も筋肉もぷるぷるして、自分で自分の身体反応にビビりました。
シナプスの受容体に効くリラックス物質のお薬(一般的には安定剤)を服用したら、
確かに役に立ちました。
昨今、痛み止めのロキソニンは、痛くなる前に服用するのが当たり前になっているように、
医療はずんずん変わっていっています。
ちょっとでも一日でも生き延びれたら、ちょっとは楽になれる治療が生まれるかもしれない。
医療従事者さん、ありがとう。