手を変え品を変え…
自分なりにいっぱい試行錯誤してみた。
でも、違うんだよね。
なんていうか…
ここまでやってダメなら、
とやっと自分の力を出し切れたんだと思う。
底力ありすぎなのかもしれない(苦笑)
当然の事ながら私は定年には遥かに若い。
つまり老化して思考がガチガチになってはいない。
だから色んなコミュニティと関わって交わされる語彙獲得に暇がない。
思考はずっとしている。
投薬で緩めて貰わないといけないくらい脳活動をしている。
言語及びその構造化で。
遠まわしに聞こえるかもしれないが、総ての語彙に意味が1対1写像で意味構築する私にとっては、必要不可欠で必要最低限の分量なのだ、つまり、
『最低限、これくらいは知っていて欲しい』という様子見のジャブである。
その間の相手の様子で、どれだけ知識獲得や知識理解に対して持続力があるか、応用力があるかを見極めている。
三十年見る事もあるが基本十年は観察する。
しかし、定年ではないけれど、初老は過ぎたので、若い頃ほどの時間が私にはない。
つまり判断を早くする必要がある。
しかし、定年後の人の基礎体力は低下しているので、
私のジャブは短期間で効果を露呈させる事が出来る。
大阪音楽大学長の本山先生の長文FBを読むのが楽しいのは、そこから映像や感情を想起させるものだからであるし、文字数は多いが全く苦にならない。
苦になっているだけなら楽しいにはならない。
さて、そこで、音楽、である。
私の楽しみは知的かつ技術の「成長」。
スポンジにいままでの汚泥が吸われているなら濯いで絞って私にとってのポーションを吸わせたい。
悲しいかな、口先だけで、肩書きだけで、空洞化している人と関わっていられるほど、私は暇ではない。
かつてそう言われ大変傷ついたので他人に思いたくなかったが仏でさえ三度迄なんだから凡人の私がその人との齟齬を赦さなくてもいいのだ。
人生の英断をしたいと思う。
これに許可を出してくれたのは傍でずっと私と社会を並列かつ客観的に見てきた息子だ。
彼は幼い頃から追い詰められる程に潜在能力を開花させる。
より哲学的倫理的思考が核になっていく。
また並行して脳神経科学も自学している。
全ては偏見を払拭するため、偏見から自助するため、認知の歪みがある健常者から距離を置くため。
お別れの説明になるのかと思う。
自覚(認知)ない人ほど怖いものは無い。
くわばら、くわばら。
月末には報告できると思います。