FBで山本トーネスみゆきさんが素敵な言葉を書かれていたのでアメブロでもシェアします。(Ameba⇒FBはあるけれど逆は無いんですね)
【大人は諦めが肝心だと勘違いしていませんか?】
とあるお仕事で、管理職をしている若い男性との面談中、
こんな言葉がぽつりとこぼれました。
「どうせ言っても仕方がない
どうせわかってもらえない
だから諦めるしかないんです。
それが大人の考え方だと思うんです。
この考え方に、ちょっとまった!をかけたいと思います。
諦めることが大人の考え方だと思っていたあなたは、どうぞ読み進めてください。
「受容」と「諦め」は、
まったく異なった思考とこころのプロセスです。
諦めの図式は、
「どうせ・・・」→「仕方がない」→「諦める」というプロセスです。
人に理解してもらえない
どんなにがんばっても思い通りいかない
そんなとき、私たちのこころは痛みます。
悔しい、悲しい、不安、怒り・・・・どれもこころの苦痛です。
実際に、「痛み」を感じるのです。
諦めの背後では、
もう疲れた、
傷つくのが怖い、
相手に拒絶されるのが嫌だ、
という気持ちが支配しています。
そのために、状況を冷めた目で見ようとしたり、
必要以上に相手の立場に立ってみたり、
自分を責めてみたり、
諦めが痛みを和らげる近道だと勘違いしてしまうのです。
「諦め」は、一見成熟した大人の考え方のように見えて、
本当に自分が何を必要としていたのか、
どうして欲しかったのか、
この状況によって、自分のこころはどう反応しているのか、
どうすれば、立ち直って前に進めるのか、
といった、大人の自己責任の放棄になるのです。
では、「受容」のプロセスとは・・・
① まずは自分を受容する
人が理解を示してくれないとき、
努力が実を結ばないとき、
相手や状況を受け入れる前に、
まず、何より先に、自分が感じている悔しさ、悲しさ、不安、怒りを、
欠陥や弱さとして否定するのではなく、
一生懸命生きている人間らしさの証として大切に受け入れてみましょう。
② こころの痛みを自分の価値観や信念と照らし合わせる
あなたの価値観や信念をもう一度確認しましょう
正直でありたい
愛情を大切にしたい
公平なチームでありたい
心地いい人間関係を尊重したい
・・・など、なぜ怒りや理不尽さを感じたか、どうして悲しくなったのか、
とても正当な理由があることに気づくはずです。
③ 自分との対話
次の問いかけを通して、自分と対話してみましょう。
できることはすべてやり尽くしたか
現実の状況に誠実に向き合っているか
必要なサポートを得られる方法は他にあるだろうか
都合の悪いことを避けようとしていないだろうか
以上の問いかけに誠実に答えたら、
もう一度自分に尋ねてみましょう。
「本当にこれで諦めていいのか」
すると・・・
もっと別のアプローチが見えてくるかもしれません
思いがけない助けの手がすぐ近くにあることに気づくかもしれません
やるだけやったんだからこれでいいんだ、という自分への励ましが生まれるかもしれません
自分にしか全うできない大切な人生だからこそ、
現実の矛盾やつらさは受けて立つけど、決して自分を諦めない。
満月の日に、もう一度自分のこころと約束しましょう。
みゆき
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
何度も鬱をやっているのですが、一番大きな鬱は父が亡くなった直後でした。
修士二回生とおかあさんと長女と…いろんな役割を並行していて、疲れ切っていたのだと思います。
葬儀や仏壇や保険金のことで揉めている様子が堪えられなかったのです。
それをきっかけに相当な状態になり、見事な退行がありました。
その際、保険金の相続の件で、知り合いの弁護士さんに相談しました。
離婚の際に知り合った弁護士さんで、色んな事が続いているから、敷居が高いと思われるかもしれませんが、裁判という大きな出来事が離婚とともにあったのだから健康診断と思って精神科に行ってください、と言ってくださっていたのに、日々の忙しさにかまけて行けてなかった事がこのようになるのか、と思いました。
その時、EQという概念を知りました。
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精神科の本棚に置いてあったのです。
IQじゃなくてEQ。
修士の時に教職単位の中にある色んな心理学を再度履修していたのもあり、無我夢中で読み漁りました。
以来、EQという文字を見ると、気になってしまいます。
FBで知ったのですが、熊本ということで実際に研修に出向くのは難しいと、たまーに触れるくらいでした。
けれど、今日、娘の急性期に読んだということ、横で息子が反応した事、が、再会のタイミングなんだ、と、なんだか、当時、直感が今よりもさらにうんと鋭かった(例:予兆を掴める)事も思いだしました。
そうして、このころ、心に響く、コトノハとの出逢いが相当嬉しく、神々しく思え、心が通じる、ということは、心あるコトノハで伝達し合う事なんだ、とも、理解した事も思いだしています。。。。
音読して息子に聞かせました。理解してくれたようです。おじいちゃんがなくなったとき、一番一生懸命だったのは息子君。当時年少さんだったか年中さんだったか小僧君だった息子は、列席の順という世間一般の縛りにとらわれず、住職さんの隣に座布団をもっていき、ちょこんと座って御経の耳コピして一緒に唱えていました。そのくらい心の機微に敏感な子(たち)です。