悲しき哉。華麗? | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

 

あえて華麗にしました。そう、加齢のことです。 四方山話でさえ、もう旧友と出来なくなると、やっと心が容認してくれました。

心理セラピストたかはりようこさんのブログの最新記事に頭痛 や 無気力の原因はこれかもよ。があって、怒りを感じた事は?ないけど体の不調がある時は、知らぬうちに怒りを抑え込んでいるからかも、というアドバイスがありました。

 

勿論私は、どのセラピストさんの事も、と、盲目的に信用はしません。過去の記事内容を遡って読んでみたりして、信憑度をどうも設定するみたいです。そう、無意識にしている事実が多い人だと思います。そこで、ちょっと考えてみる事にしました。

 

気の置けない旧知の親友に手紙の返事を書く、という行為で心情を書き起しました。

 

私は、昨今の人の、未熟さに辟易しているのだという事が浮き彫りになりました。合唱団の事もそうです。かつて教授が50歳で京大に戻られた際の研究ミーティングで、定年を迎えようとしている業界の先輩(その道の大家)の衰えを「もうアカンな」って吐露されたんです。学生を前にしてだったからか、その方を知っている人がいないと踏んだからなのか、解りませんが、私は奇しくも、修士論文の副査(複数人の教授の審査を経て論文として提出が認められます。博士論文はもっと予備審査が厳しいです。)をしていただいたので、そのつぶやきに驚いてしまいました。

 

指導教官もやがては定年を迎えられる。(事実昨年そうでした)その数年前に自分の知らないところで感じるのは仕方ないにしろ、こうやって音声に乗って発話されちゃうんだ・・・という事が怖かったのです。ご自身がいつか言われる可能性がある、というのに。(敬意を払ってそのような事を仰る人の方が少ないです…ちょっと噂好きな研究者としては珍しいタイプの指導教官でいらしたので・・・)

 

でも、ご自身が退官される間際に、私の同期の「もうあの先生なんの力もないで」という発話に理解を示されました。「それが彼(同期)の愛情」だ、と。そういう捉え方をするならば、上に書いた某先輩先生へのもうアカンな、は、自分がしっかりバトンを貰わないと、だったのか、もうゆっくりなさってください、だったのかわかりませんが・・・少なくとも言葉通り、つまり辞書的な解釈ではなく、そこにコミュニティでの歴史があってこその吐露なんだと今なら理解できます。

 

今の日大の事件にちょっと似ているな、って思いました。この事、入学して二年の価値観が全く違う、ジェネレーションギャップがありまくりの学生が聴いて、その先生の意図に則する理解がすぐできるでしょうか???無茶です、そんなもの。私の同期でいえば、教授とは私より七年以上長い付き合いなので、同期の性格が解っているのだと思いますが、私の事なんぞ、京大に移ってからの学生なので、日も浅く、辞書式の理解しか双方が出来ないと思います。

 

で、同じ時間の流れでも、新卒の時に友達になった冒頭に書いた友達ですが、同期は学術界での時間の差についてですが、私と友達に関して言えば、彼女が新卒で(彼女は短大卒でした)二年で結婚して以来ずっと環境が大きくは変わってないので、そのあと離婚して、大学院に入り直し、ひとりで子どもたちを養う、というお父さんとお母さんの両方をして来た私は、年月を数えるほどに、乖離幅が広がっていくんだな、って。

 

あんなオバチャン嫌やなー、って、言ってたオバチャンになっていく友達。時の流れだから、いいんだけど、深層を記した手紙は、書き終えたところで、破いて棄てました。感じ取った頃から、そうすることばかりになりました。加齢するとね、筋力がまず衰えるでしょ?だから、所作が粗くなるんです。維持する力がなくなるから。ドアもバターンって閉めるようになるし(閉まるまでドアノブに継続した力を与える事が出来ない)、耳が遠くなって思考が短絡的になるから自分が聴こえてないから他人に迷惑掛かっているなんて思ってもいない。。。それが加齢の現実です。。。

 

京大病院の一般病棟。開院とともに、遠方からこられたにもかかわらず、ダッシュで番号札を取る。ガラケーでもスマホでも使い方が解ってないからマナーモードに出来なくて鳴る。呼び出し機の音と混在するも、どっちも聴けなくて、臨場音が鳴りっぱなし。自分が呼び出されている事に気づかない。同行者も私くらいの年齢だとすると友達のように感覚過敏じゃない健常者の加齢があるとすると、同行者も気づかない。けれど雑談はする。臨場音で会話が聴きとれないから、もっと大きな声で四方山話をする。その中には、本来外で言う必要のない事も、むしろ控えたほうがいい内容もある。。。

 

一方、子どもは、少子化だから、いつぞやの中国の一人っ子政策の際の小皇帝みたいになって甘やかされて、肉体は若いけれど、周りをこき使う…ある意味こっちの方がタチ悪いかもしれない・・・

 

これが超少子高齢化社会の現実なんでしょうか・・・

 

長い間、信じたくなかったです。

 

今日は西城秀樹さんの告別式でした。二度目の脳梗塞からの復活ライブの際は、五〇代後半だったのか若々しい様子で、さすが元アイドル!ってな感じですが、還暦あたりからやっぱりおじいちゃんでしたね・・・西城さんでそうなんだから、それ以外の還暦過ぎさんは、皆見事な高齢者なんだろうな・・・って、悟りました。

 

友達は二つ下なんで、まだ四〇代です。それでも、かつての実母が言ったように、なんだか都合のいいように、更年期使っているみたいで、悲しかった・・・

 

こうしてね、親ともそうだし、旧友ともそうだし、師匠ともそうだし、同期ともそうだし、新しく入った合唱団のおじいちゃんおばあちゃんタイプの方がたともそうだけれど、こころがうんと離れていくのが痛感されて、本当に孤立していて、しんどいです。

 

どうにか解りたい!!ってしてくださる、精神医の先生のツイートとか、お医者さんじゃないけれどこころをなでてくれるようなツイートをしてくれる方のツイートには、こころに絆創膏を貼っていただけています。そういう意味で私はネット依存と言われるなら、もうそれでいいです。

 

現実の近場に、こころを許せる人がいない人が、ネットの向こう側で、相性の合う人を、見つけられたら、救いになる。適材適所というか、使い方というか、距離の取り方というか、そんなですよ。研究もそうでした。狭義には専門が違っても、多感でこころやさしい繊細な子どもや素人さんに、使っていただける技術はないものだろうか、というアプローチを理解してださる先生は、全国大会の際に顕れてくださいました。そこでも見つからない場合は、国際会議の時に、海外から顕れてくださいました。

 

そこでの共通言語は、数式や専門用語やその英語訳なので、私が英語ができるようになりたい、というのは、こころの齟齬が無いくらいの英語力が欲しい、という意味だったので、友達や彼氏作って、漏れていいと独断する四方山話や、ピロートークの英語あるいは外国語じゃないんですよ・・・・

 

私のブログの読者さんは少ない方だと思います。けれど、そんな多くの方に、私のセンシティブでデリケートな思考やこころを近似的に理解できる方がそうおられるとははなから思っていません。私は数字主義じゃないので。民主主義に採用するのに、多数決とかなんじゃそりゃ、とか思っているので。だからそれぞれの専門家は大好きです。研鑽を積んでいらっしゃるから。ヲタクさんでもそうです。精度が凄い人、素直に尊敬します。

 

そうそう、以前、知る人ぞ知る、スーパードラマー、世界が選んだ100人に名を連ねた事のある、神保彰さんに、BBSで、神保さんのサイトのサーバーエラーを、元SE同士で議論していたら、専門用語ばかり書いて解らないじゃないか、という声もあったけれど、専門用語でしか通じない対応策の議論だというのと、神保さんのサイトのサーバーのエラーをどうにかできないか、みたいな、電車男を応援するネットのこっち側集団みたいな状況になった後の、ライブで私はカミングアウトをし、客観的にみてBBSを荒らした事になるのならスミマセン、と申しのベましたら、

 

『気にしないでください。専門用語にインスパイアされるのでむしろバンバン書いちゃってください。』とまで言っていただき、安堵した事があります。

 

以来、別の知り合い(大学院に入る頃に知り合った人)に、言われた『餅は餅屋に訊け』を遂行するようにしています。そのために、今解決するべき課題が、餅なのか、野菜なのか、果物なのか、食べ物じゃないのか、などなど見極めるための、推考も遂行していますwww(決して洒落の通じない人ではないです・・・・野口五郎さんの崇高な駄洒落にはむしろ感動さえしてしまいます)