まだまださがってます。こんなときに、つきのものが。。。3月とんだので、てっきり、こうねんきのおなかまになった、とおもいましたが、それいこうは、かんかくがのびただけで、またいらっしゃいしました。わたしのはもともとおもたいのです。せんもんていにいうと、ないまくがぶあつうなりやすいのです。ないまくをぶあつくするほるもんがたくさんでるいとみたいなんです。だから、かんかくが、あくと、ただでさえつらいきつい、しょうじょうが、よりないまくがぶあつくなったけっかなので、とんでもないことになります。

 

むすめちゃんには、わたしのようなつらいじんせいをおくってほしくないので、せいいんするのをまって(もしかしてないしんがあったら、きずつくとおもったからです)、そうそうにふじんかにいき、げっけいまえのしょうがいのせんもんのせんせいをたよりました。きょねんのなつから、おくすりをもらっていて、だんだん、それこそかたつむりのように、ちりょうしています。

 

それはいいのですが、わたしは、せいらい、じぶんのことをあとまわしにするくせがあるらしく、「こんなになるまで・・・」とか「いままでよくしんぼうしてきましたね・・・」といわれます。わたしは、かんかくかびんがあることを、ははがりかいできなかったために、おおげさだとおもわれ、「いちいち、いたい、っておおげさだ」と、なにもしてもらえませんでした。はじめてで、よごれちゃったものがでたときも、おかあさんは、すべてをきもちわるがって、さけぶように、しじをだして、「あとはじぶんでかんがえてやりなさい!ほんときたないこ!!!」って、すごくいやがるかおをしたのです。

それがわすれられなくて、ずっと、じょせいであることが、いやでした。せいべつがあることがいやでした。のうのせいちょうは、たのしかったけれど、からのせいちょうはいやでした。

 

ちかんにあっても、つらかったね、じゃなくて、かってにおおきくなったむねをもっているからわるいんだ、といわれ、だれかにすかれたときは、こどもはべんきょう、おとなになったらしごと、それいがいはいらない、でした。おとうさんと、おかあさんは、けっこんしていて、わたしとおとうとがいるのに、なんだかわけがわかりませんでした。おとうさんをおかあさんのなかがわるいことは、ずっとつづいていました。あるとき、「こどもはてかせあしかせだ」と、おかあさんのしりあいにいっているのをきいてしまいました。「こどもさえいなければりこんできるのに」ともいっていました。おかあさんのじんせいに、わたしとおとうとはとってもじゃまなんだな、と、こどものころにおもいました。

 

それいらい、びくびくして、せいせきがよかったときのこといがいは、いわなくなりました。とってもいっぱいおこって、おまえなんていなくなっていい、というようなことをいわれるからです。だから、つらいことも、いわなくなりました。せいしんてきにどうもこれはおかしい、とかんじた19さいのころ、ほけんしょうがないから、びょういんにつれていってほしい、とおねがいしたけど、あいてにされませんでした。そのときに、なんだかじぶんがしんだ、とおもいました。

 

それいらい、じぶんのからだのことは、まわりのひとよりうんとうんと、ていどがひどくてもいいませんでした。ぼうりょくがあって、くびのほねがずれて、しんけいがあっぱくされて、いきができなくなって、しんぞうがくるしくても、びょういんにいくとか、きゅうきゅうしゃをよぶ、というより、「あ、もしかして、このまましぬ?」くらいしかおもうことができませんでした。

だからほんらいなら、むすこのいじめられてきずいたこころをなおすためにびょういんにとびこんだときに、いっしょにわたしもかかればよかったのです。むすめがげっけいまえのこんなんしょうがいで、とびこんだときも、いっしょみみてもらえばよかったのです。

でも、ひっしで、じぶんのこと、わからなくなっていました。。。。

 

むすめにあるひ、「おかあさんは、べんきょうと、びょうきと、わたしたちのおせわしかしてこなかったね」っていわれます。そう、べんきょうは、もともときがよわく、しかられたら、こわくてないてからだがふるえてしかたなかったのに、またわるいせいせきをとったらもっとしかられるから、なきながらべんきょうしていました。からだのふちょうも、じぶんでしらべて、じぶんでどうにかたいしょしていました。おこづかいはもらっていなかったので、こうこうになってあるばいとするようになって、したぎからふくから、べんきょういがいのものはだしてもらえなかったので、じぶんでまかなっていました。わたしじしんは、ぼしかていでもなく、ふしかていでもありません。おとうさんのおきゅうりょうもそこそこあったのはしっています。りょうしんのなかがわるいから、おとうさんのかいしゃにいって、せいかつひ、さんじゅうまんえんを、つうがくかばんにしのばせて、おかあさんのもとにもってかえったこともなんどもあります。なのに、じぶんのことはじぶんでしていました。おとうとは、そうではなかったです。

 

しょうがいしゃさべつや、きょじゃうたいしつへのさべつがあったので、わたしのきょじゃくを、なんだかかいていておかしいとおもいますが、いじめていました。おかあさんはじぶんにそんなししつがあるとは、おもえないので、ぜんぶおとうさんがわのいでんだといいました。

つまり、じっかからはなれて、りこんしたからといっても、じじょうがあっても、いくらきずついても、せけんていがあるから、もどれなかったので、たすけてもらえなかったので、わからなかったので、はっけんがおそくなりましたが、わたしには、はったつしょうがいがあり、ずっといきにくさをかかえて、そとにださず、ゆうとうせいになって、おやのよいかおにかたんするか、おかねをだすかするいがいに、いきるかちがなかったことに、みをおいていました。

 

それがみごとに、くずれて、もうかってにからだがいきることをやめようとしたのは、ゆいいつりかいしようとしてくれた、ふだんはきびしいけれど、「これはあかん!」というみきわめができる、ちちがなくなってからです。

いらい、からだがどんどん、わるくなり、いつしか、しょうがいしゃにんていをうけました。

ずっと、おやの、ずっとよのなかのどれいとして、いきてきました。でも、もう、なによりさきにじぶんでじぶんのとくせいをみとめようとおもいます。ははおやがいやがるから、みとめずになかったように、けんじょうしゃのだれよりゆうとうせいになれるような、しんしょくわすれてどりょくすることは、じぶんをいじめていることだと、ちゃんとりかいして、やめようとおもったのです。

 

たしかに、きょうだいのみなさんが、そようをりかいしてくださったのは、ありがたいです。しかし、まだ、しろいきょとうないちめんがあるので、(だんせいしゃかいはそんなもんです。このよもだんせいがつくったからおなじです。)だから、わたしは、せめてこのいまの、かこうするだけのしょうじょうのうちは、うそをつかないことはいりょうきかんのひとにはもうりかいしてもらっているので、しんだんをそのままうけいれて、しっかりねこもうとおもいます。ほんとうはにゅういんをなんどもすすめられてきましたが、こどもたちへのせきにんは、ほうちできないので(するとよけいにじぶんをせめてしまいます)、ぎりぎりのはんだんをけいぞくする、というやりかたをしていただいています。

 

まだまだふっかつしません、どこまでさがるんでしょうか・・・こわいですけれど、どうしようもないので・・・

ここまでかけたからがんばれたかな。

これだけおちると、かんじがすとれすになるので、ひらがなになります。

とくせいをしってくださっているひとは、へんにおもいはりません。

「そうなんだ~」というだけです。そうおもっていただけるのがいちばんのあんしんです。ではまたそのうちいつか。