書き手である私。

 

国語が出来ない人は数理学が出来ない!…これは、東京大学大学院の数学専攻の先生方が共通して仰ることです。

 

実際に京大百年記念会館で湯川秀樹さんの論文を拝読しましたが、論理の展開に専門用語や数式が出てきますが、論ずるにあたって、接続語は日本語で書いてありますが、その使い方が大変適切で美しいと感じました。全てが美しいのです。

 

留学生が京大に来る前に日本語を勉強します。いつか書いた台湾の後輩が「恐れ入ります」と言いました。日本の後輩からは聞いたことが無い言葉です。私は感動して「今の日本人も使えない、目上や先輩の方に対する使い方が適切な日本語を使うんですね。素晴らしい、感動しました。どこでどうやって勉強したか教えて貰っていいですか?」と質問しました。

 

彼女はEテレの日本語講座だと言いました。そうです、私は随分前から気づいていました。日本で生まれ日本で生活していたというだけで、正しく日本語が使えていると過信していないか、と。内容に適切に合致した言葉、なおかつ、心に優しい言葉、が、みについているはずがありません。美しい日本語に触れ、成り立ちや規則性など、勉強し、使いこなせるようになって初めて、活かされるのです。

 

同じように国際会議に初めて参加した時、バンケットで民族衣装を着た人がいました。ドレスコードがあるわけではありませんが、貧乏学生には、発表用のスーツくらいしかもっていません。けれど、そこでもふと、外国の文化にあこがれるだけで、日本の良さをアピールできるほどに知識も技能もない自分が暴露された気持ちになりました。

 

京都にいながら、研究ばっかりで京都の事知らないし、紹介も出来ない。ネットで調べた事しか説明できないのなら、私が紹介する必要が全くなくなる・・・私の京都在住はバンケットでは全く意味を持たなくなります。

 

海外の学生はそうではありませんでした。理数系なので、日本のアニメに関心を持つ学生が多く、その点については話ができましたが、随分と大人になって院生になった私がマンガとは時代が違って話に入れませんでした。共通の会話の要素が見つからなかったのです。

 

でも歴史があるモノなら、流行りすたりという概念から乖離しているので、例えば伝統産業のものを知っている事は素晴らしい紹介であり、魅力であると思いました。そこできもの学の講座を受け、自分で浴衣くらいは(バンケットにはラフすぎますが、襟つけて足袋はいたらどうにか、格が上がって対応できる、というところまで勉強しました。)着れるようになりたい、と思いました。

 

自分の知識に興味を持ってもらったら、自分の研究にも興味を持ってもらえる。すると、会話が出てきて、交流が出来る。国内では発想されなかった知識交流が出来る…それが実現する折角の国際会議という場所をもらっているのに、それを活かしきれていない自分の、幅広い知識が無い事を情けなく思い自分を責めました。

 

以来、複眼的に、色んな事を考え、そのために人にはフランクに接します。人当たりがよいと、怖がって萎縮されることが稀有なので、その方の魅力が引き出せるからです。その中には素敵な発想を持つ人、素敵な感受性を持つ人がいます。知識共有していただき、交流して、互いに相乗効果で人間力があがっていけたら、それを苦しんでいる人さまへの慈しみに変えられたら、幸せです。

 

そもそも私は研究を世界規模の競争としては行っておらず、ある意味医療行為、と言いますか、社会的経済的身体的情報的弱者に対してのアシストができないか、という目標でやってきました。それには時間がかかります。けれど、今の研究者を育てる環境には、時間をいただけていません。それが勘違いや思い込み出逢っても、詭弁で、研究成果として、文科省に採択されれば、研究費が出てしまいます。事実国が技術大国という理解で、最先端の爆発的力を持つような研究はアピール性があるから、そこに着目しやすいし、悲しい事に昨今の研究にも、流行というものがあって、もう生活が社会的経済的身体的情報的に安定している人が余力で憧れる人対象になっています。

 

出ないと、研究費の元である税金を出していただけませんものね。お金のある人のご機嫌取りをしなくてはなりません。研究者としては、悲しすぎます。けれど、割り切りのうまい人は、瞬時にうまくやってしまいます。私は、悲しみに陥ると、なかなか底から這い上がれない特性をもっているので、それを知ったショックから、研究の発想ができなくなりました。何だか出来レースなのに、それを知らずに「アシストの仕組みを作りたい」「それが京大に進学すればできるかもしれない」と信じていたのですから。

 

だからもういい加減、お人よしというか、この行為というか、普段から行っている言動は、自分を護るために止めたほうがいいのかもしれません。世の中の原理自体がもう、私の考えている事なんぞ、気づきもしなし、「それがどうした」と、恵まれている人中心だからです。殆どの人は中心の人に憧れ強く影響を受けます。芸能人や社会的肩書のある人、頭がいいと思われている人、に影響を受ける人が多いのがその証拠です。そうして、盲目的に過剰期待します。自分の意見を受け容れて欲しがります。背景効果にズッポリです。そのような多くの普通の人にとっては、私という存在は、自分を信じるためには邪魔なのです。排他です。見た目に容姿が小さいうえに女性という社会的弱者、障害者、貧乏なので、攻撃されやすいのです。

 

私は、心の豊かさや、閃きのするどさ、思慮の深さ、人としての慈愛、に、感動し、癒されます。真反対の多くに人生ずっと傷つけられてきましたから。だから、物欲が無いというか、関心がかなり薄いです。だから物欲が深い人、見栄をはる人、事実以上に自分を素敵に思ってもらいたい人、は、かなり苦手です。そのために他人を利用する人(ヤツあたり先であったり甘え先であったりという意味も含む)もかなり苦手です。フリーズしてしまうくらい苦手です。両親、特に母親や親せきがそうであったので、それにそっくりな素養が他人に見つかると、この世の終わりくらい傷つきます。今日は、悲しすぎる事を細分化せずに、丸ごと一方的に話を聞いたことがあったので、とたんに鬱になり、生きる気力がなくなりました。何も考えたくないし、お腹が減っていたはずなのに、食欲もなくなりました。身体が心に反応して、生きる事をやめようとしはじめました。父が亡くなった時の周りの争い、研究室での争い、子育ての争い、巻き込まれて、心が先に死んだのです。心が惨殺されると、身体が勝手に見る見るうちに生きる事をやめようとします。鬱になった時、その速さに怖くなりました。娘の出産の手術で麻酔の事故で死にかけた時くらい、パニックを起こすようになりました。一瞬で堕ちます。

 

私、かなり、繊細なんですが・・・・

 

その点大学のみなさんは、研究には厳しかったけれど、そ例外のコンプレックスは共通していたみたいで、特に経済的な事は人のお財布に入りこむセンシティブなので、とても気を使われて、自ら話す人もいれば、「僕が言うより、○○さんの方がよこしまさんにとって適任だ」となれば、その工夫もなさってくれました。私が自分の事を包み隠さずいうのは、「これだけ材料があったら、データマネージメントが出来、工夫に時間や手間を要しないで済む」という相手への配慮です。

 

研究者はとんでもなく忙しいので、寝てもいませんし、自分の時間は全て研究に注いでいるので、私への配慮の時間などに、時間や能力を使って欲しくないのです。それは私なりの相手へのいたわりです。社会的上下関係はありません。そうしてこれは多くを占める一般という人には理解してもらえない、いえ、まず気付いてもらえない配慮です。

 

気づいてないだけで、出来ていないという烙印をおす。短絡的な思考の方が多いのが現実です。例えばスマホは便利です。だから障害者のアシストツールになるのだけど、健常者が娯楽で使うと、自ら考えなくなる。人に流される。人が苦労して作り上げたものをいとも簡単に盗んで自分がもともともっていたと脳に勘違いさせて堂々としている。

 

…人がアホになっていく・・・怖いです・・・

 

やっぱり、数理研の講習受けようかな・・・代数学のようだけど、私は掘り下げてしらないので、専門に特化して講義を受ける事によって、モノの見方、理解の方向性、マネジメントの技法が増えると思うからです。技をたくさんもっていると、どうにか組み合わせて、どうにか人生の難題にも完璧じゃなくてもどうにか合格点あるいは及第点的に、要は凌げるようになれると思うのです。

 

だから私は学びを止められないし、解らない事は解りたいし、できるだけ知識を入れたいです。マイノリティで障害者で偏見でいじめられる命を生きるために。

 

嫌な事は嫌だと、正当な事は正当だと。相手が男性でも、高圧的でも、逃げ道を奪われても、言うのですが、信じてもらえませんし、相手にしてもらません。ましてや理解してもらえません・・・つまり・・・・軽く見られているのだと思います。

 

外…普通・・・怖いです・・・

 

やめよっかな・・・誤解の程度がこれだけはなはだしいのなら・・・マジョリティに屈する周囲なのなら・・・とにかくとっても傷ついています・・・

 

私の書いている事は、そんなに何も考えていないくらい、酷い文書なのでしょうか。指導教官(研究室の教授・直の師匠)が「概念は言葉で出来ている!!!」と叱責されました。だから東大や京大の人は語彙がまず多いし、臨機応変に語彙引き出しから出せます。また研究者なので、観察力が鋭いので、「今それを言うタイミングかどうか」「誰からいうべきか」「どんな言葉がよいか」「どんな抑揚がいいか」「場所はどこがいいか」などなど受け側の負担に大変神経を使ってマネジメント、つまり準備をされます。それでも、完璧でない事を御存じなので、それがうまくいかない事があった時「まだまだ至らないなあ」と、受け側の言い分を反省点として聴いてくださいます。

 

人の心の声を聴けずして、上には立てないからです。立つ素養が育っていないからです。誰しもにプライドとアイデンティティがあり、それはそれぞれにどなたのも尊重されるべきです。その人の言葉を借りれば、尊敬なのでしょうが、私は盲目的に尊敬というのも考えていないと思いますし、尊敬と尊重は違っていて、尊敬には見えないヒエラルキーがあるので、発したご本人が競争論理を持っていて、しかも上に立ちたくて、自分の意見を通したい、という、潜在意識を持っている自覚が御有りなようには私には見えませんでした。

 

エライ目に遭いました。その方はある事をきっかけに私のブログを知ったという事で、この記事も読むかもしれません。けれど、私は書きます。機嫌を取るためにブログを書いているわけはないし、事実を書いて、どう感じたかを書いているだけで、そこにヒエラルキーはもってきていませんから。なので、ヒエラルキーや力を含む単語は、あえて使っていないはずです。知っている言葉だけどもしかして???という時は必ず辞書を引き引き確認して、最大限の努力をして語彙を選別し、文書構築していますから。何より、初めてです。個人のブログの内容に、文句をつけた人。ありえない!!!後で誤解だと解った時、恥ずかしくないのかなあ・・・・