レクイエム、合唱するようになって知りました。
単語の直訳は知っていましたが、式典というか、厳かに、ストーリー形式で進む一連の様式である事は知りませんでした。
御茶に通ずるところがあるように思いました。
御茶をいただくとき、御茶室という、掛け軸も、生けられている御花も、御菓子も、全て、渾然一体となって、意味をなしている空間でいただきますよね。
宇宙のひとつのような、周りと波長が同調するような、そのような感覚になります。
年の瀬、楽しい事がいっぱいな分、悲しい事もあります。
世が浮かれているこっちで、悲しいことを癒すというか、向き合う事を大切にしたい、というか。
阪神も東日本も震災の事を想い、近しい人が天に召された事を想い、日本国内の悲しい事故、事件、などなど、
それぞれで、今生を離れる事になった御霊に対し、最敬礼したい気持ちでいます。
下記も例外では、ありません。宗教上、許さないとされる事だというのも知っています。そのうえで、私の中では決して例外でないと、あえて明記します。
このところ、ブログが停滞していたと思います。
こころを書くところが、いつしかインスタ映えのような、なんだか視覚的に興奮状態であるものを載せる事がメインになってきてしまっている、ブログと向き合う事が直感的に出来なくなっていました。
メニエール症候群になって、肉体が辛かったのもあります。娘がパニック障害も併発してしまって、押し付けがましく無いケアを模索して、実行して、精神が辛かった結果なのも解っています。
けれど、私も娘もなりたくてなったわけじゃない。
だから、たとえ生きていたとしても、”世の中が決めた”楽しいことを実行できない人もいます。
世が思っているのとは、実質逆転している、”世の中が決めた”楽しいことをする、身体的余裕も精神的余裕も経済的余裕も時間的余裕も・・・(どれかがひとつ欠けても実現できない)無い人が実は多いのだ、と言いたいのです。そうして、その押し寄せる事実から目を逸らせららない、と思ってもいます。
ですから、上に書いた、”世の中が決めた”楽しいことができない状態にある人も、どうか悲観しないで欲しいと思います。超ネガティブ思考の私が言えるはずもないですが、このところブログを少し距離を置いて、到達した考えです。達観と呼んでもよいと思います。
だから、第九なのかもしれません。第九の歌詞は、きょうだい、と言っています。いのちをきょうだいといっています。激しい曲調なので、個人的疾患から、辛くて思考の電球がつきにくかったのですけれど、それだけの強い想いで、いのちをきょうだい、だと、言いたかったというか、今こそ言わなければいけないというか、そのような想いが根底にあったのではないか、と、感じていたりします。
いのちを想う曲、歌、大切にしていきたい、身体ひとつで実現できる、と、それで歌を選んだのだ、と、確固たる意志がそこにあった、ということも思い出しました。
だから、今日もいのちの歌を歌います、歌いたいです。