あのね、人の信仰について、私は何も進言しません。広めもしません。
ただ自分が気づけば出遭って、なんとなくでも継続しているものについて、日記のように「今日はこうでした」という事はブログでもSNSでも書きます。
元が研究者なので、表現が実体の精度を正確かつ客観的に示している言葉しか使用しません。
商売をしていないので、リップサービスや過剰広告や、人間の心理を利用した言葉を選ぶという行為は皆無です。
例えば!!! 病院である先生が何かの薬を宣伝しますか??? 法律でそのような行為は禁止されています。
私が自分の本心やかなりプライベイトな事を話す相手は、法律で守秘義務を課せられた人に限ってです。
そのような責務を負っていない人についうっかり話して、それをどこかで話されても罰せられないからです。
しかし、時代は変わりました。 企業でもうまくネットを使って、広告を出したり、クリックスルーといってその宣伝が表示されている画面の矩形位置をマウスポインターが通過するだけでクリックしてしまう自動機能を埋め込んで、自分のページに引き込むアプリもあります。
それでもそこで得た情報はDMを送るなど以外には漏らしてはいけない、という規約があり、それが明記されていない企業には、いくら魅力的なキャンペーンをやっていても私は申し込みません。
相手は、こちらの個人情報が欲しいだけなのです。実際に当選した人はあらかじめ宣伝した確率を確かに満たしていたか、という事後報告の義務はありませんから、何かのキャンペーンで当選した人が本当に○人いたか、という実態がつかめないので、ある意味いくらでも過大広告や、ちょっとした嘘がつけてしまうのです。
そのような世の中である事だってリサーチしていますよ。だから、そのような怖いところで、そこに馴染んだ人と関わるの、怖いでしょ。
個人情報を何に使われるか解らないのに相手がどんな人かも観察しきれていないのに渡すわけないでしょ。
だから母校の病院であり、相談するなら法曹界なんですよ。郵便も郵便法で郵便物に記載されていた情報に対する守秘義務ありますよね。
この国は法治国家なので、私は法律に準拠しています。まだまだ赤ちゃんのような法律で改正や改革が必要なものがたくさんありますが、それでも現行の法律には準拠します。海外先であっても海外の法律のみならず、日本の法律違反はダメです。そんなことすら知らない人が多すぎます。
何がいいたいかというと、解りやすく言うと、書き言葉、綴り言葉とも言いますが、それは時代によらずあまり変化をしません。広辞苑の改訂も毎年ではありません。一般の人と御話しするときの基準として、広辞苑クラスの辞書で調べて、それから伝えたい意味を含有する最適な言葉を文法的に間違いなく綴って私は文章を構築しますし、それが私の概念思考です。
噂話もしません。陰口もたたきません。確かでないものに対して、信じるわけにはいきませんから、それに賛同も否定も出来ませんし、そのような矛盾した行為は私には不能です。
ブランド物を持ったり、家系を自慢したり、マジョリティであることを言ったり、流行りのものばかりを取り入れたり、表面的なことに(視覚的な事)に重きを置いてはいません。ズバリ書きます。心理学で言うところの「背景効果」「ハロー効果」は私には使えません。集団心理にも陥りません。
なので疑似科学は真の科学者にとても失礼なものだと捉えているので安易に信じません。何度も何度も検証を重ねて、それで頑強な真理や定理が見つかった時のみ、まずは専門家に見ていただき、意見をたまわります。社会にでるのは、それから10年も15年も経ってからでしょう。
なので、短期的に動く動産不動産からも距離をあけています。12月にひっそりしているのは、師走といったり、クリスマスといったり、ボーナス時期であったり、正月前だったりして、浮ついた心理で散財したり、豪遊したり、金銭に行動思考を振り回されている事に気づかず、集団心理で更に興奮し、そうでない事を孤立していると思い込み、事故や事件が多発するのを知っているからです。
生きていく事に真摯なら、危険を回避するのは当然でしょう。私は生育上、扁桃体が発達しているので、危険を察知するのが速いです。あまり脳科学に詳しくなさそうな人には「勘が鋭い」や「直感」という亜性の言葉を使って伝えます。それでも理解できない人は、申し訳ないですけれど、私とは語彙空間で交差する部分が空集合になってしまうので、ご縁がなくなります。
共感できるものが皆無だからです。信じているものが違いすぎるからです。仏教でもキリスト教でも、なんでもいいのですが、宗教を通じて人間に何をどう伝えて継承していくことが望ましいのか、人間の思考の在り方を哲学的に集約して捉えられない人とは話はできません。ごめんなさい。
最近、斎藤一人さん、という人の話を紹介されました。知っています。まるかんの人ですよね。昔は面白い事を言う人だと思っていました。両親とも実家が商売をしていたので(高度経済成長期以前はサラリーマンの方が少なかったですよね。)、商売するには大変参考になると思いました。動画サイトでも講話があり、年配の女性の笑い声も入っています。
でも、大学を卒業し、一般企業にエンジニアとして就職してから、結婚出産離婚して、今度は大学院に進学し、修士・博士を修了して、世界の学術界に触れた後の私が久しぶりに斎藤さんの動画の講話を聴いたとたん、げんなりしました。まず彼は言葉が汚い。
表面的な事を重視する一般の人からたくさんの収益を上げた人なら、どうしてボイトレにいった声で講話しないのか、また世の中の言語のうち自分がそれまで持っていなかった新しく出遭った適切に自分を表現できる美しい言葉を身につける努力をしなかったのか、「他人の粗を100個探す時間があったら自分の悪いところ1つでいいから直しな」や「繁栄をするなら変わっていかなきゃならない」や「相談しに来ておきながら”それはできません”というのって頭がオカシイ鬱の人だ」という割には、その事実にご自身が陥っている事に気づいていないというとんでもない怖さを私は捉えました。
そうして、それで講話をして笑っている年配の女性に浸透させて行って、もしかしたら御父ちゃんが稼いだお金を、斎藤一人さん他人の事だと思ってダメだしたはずのひとりに、まさに斎藤一人さんになりさがり、投資してもらっている・・・というカラクリ。怖いです。
真面目でいいじゃないですか。冗談のひとつも言えないでいいじゃないですか。ウケない寒すぎる時代遅れのセンスのないギャグを飛ばされる方が息苦しくなります。そうして自分はイケテルと信じ込んでいる。神のお告げだと言っている。宇宙の心理だと言っている。
斎藤一人さんの直前に筑波大学精神科の松原先生が医療系の学生に作成したミニ動画「気分障害のうち躁状態の妄想」を視聴していたので、斎藤一人さんが講話で躁状態にある事が解ってしまっている私には本当に辛い斎藤さんの声でした。
諸行無常・栄枯盛衰。斎藤一人さんは1990年まで13年間納税が一番だったそうです。税対策が出来ていなかったともいえます。そうして、今は2017年。30年~40年近く前の税対策が出来ていなかった自慢の余韻で枯れて衰えた自分をまだ鼓舞している。
痛々しいです。本当に痛々しい。
もっと潔くカッコよく美しく枯れて衰えられないものなのでしょうか。
そのような人の事を信じろとばかり言われるのは迷惑です。私が誰を信じようが、誰を尊敬しようが、どこまで知を獲得しようが、どこまで深く洞察しようが、それこそ自由です。斎藤一人さんのもう枯れ切って衰えきってしまった講話には、スタンフォードや、バークレーや、東大や、京大や、研究所に関係者や先輩をたくさんもってしまった私の心は、何も響きません。
簡単に騙せる人相手に商売をして行ってください。もう皆が学歴が上がってしまって、若い子はスマホの話し言葉という変遷の激しいところで生きているので、その方相手にしてください。
私や私の概念的周辺や子どもたちは、綴り言葉で生きているので、お調子者でもありませんし、被災して立ち上がった人間なので、御気楽にも生きていないので、人の見極めは厳しいです。博士課程や研究者は恵まれていませんよ。商売で儲ける種類の人間ではありませんから。人生をかけて、あるいは後継者にバトンを繋いで、解明して、苦しんでいる人をひとりでも多く少しは楽にして差し上げたい、と、いそしんでいるのですから。寝食や贅沢や華美を忘れてそれに没頭して生きています。
同じ中学卒でも斎藤さんのように商売で成功した人はいないです。そういう意味では、中学卒でもどうしたら社会貢献社会還元できるか、という中卒の人が世の中から偏見を受けないですむ機構を創設するとか、されたらいかがですか?もうけた金を自慢してそれを免罪符にして、これからも自分が生きるために遣うんじゃなくて。
なので、この手の事を私に進言する人は、私が自己矛盾を起こしている人を見抜く目が無いと、馬鹿にしている行為と同じなので、是非やめてください。そうしてもし実子がおいでなら、自我の表現をどうか許して差し上げてください。
人生の正解や楽しさは、人の数だけあるのです。あなたの正解が世界ではないです。信じる人は信じばいいですが、私は人さまの思考をそんな狭いところに押し込めたり、引きとめたり、独り占めしたり、洗脳したりして生きてはいかないです。
そうした末尾に悲しいことを書きます。なんとかは死ななきゃ治らない、って・・・信じたくなかったです。私は世の中の全ての何らかのきっかけで人とのご縁がある日突然断絶された当事者同士の心の傷の深さを知っているからこそ、見限るとか、見捨てるという行為をしたくないのです。見捨てられた人どうするんですか?見限られた人どうするんですか?見限ったり見捨てた側、胸が痛まないのですか?
「鬱の人はオカシイ、ほら、いっちゃなんだけど、頭オカシイから、相手しちゃダメ。突き放すの。なぜ寄ってくるのかというと、傷つけようと奪おうと思っているからなんだよ」←この講話、全ての気分障害患者とそれを治療している医療従事者、理解しようとしている勉学者に謝ってください!!!!
どこまで差別(その中でも一番卑劣な、差別心を利用して人を陥れる行為)が浸透しているんだ!!!!
病んでるのはアンタだよ、斎藤一人さん
私、こういう人を、人間的に頭悪いと言います。人間性を疑う、という意味です。経済的には「かつて」成功したのかもしれないけれど、いつまでもそれにすがってて・・・・本当に悲しい哀しい寂しい人ですね。
私はこういう人に偏見を受けてきました。鬱病は頑張りすぎたらなったり、ハラスメントを長期に受けるとなったり、します。誰でもなります。躁の人に振り回されてもなります。
もう、講話しないで、一人で昔を思い出して、佇んで生きてください。あなたが講話で言っている世間の毒にご自身がなってしまっている事に早く気づいてください。
そう薦めてくれた、野呂一生さん、もう興業が難しいのは、実際にライブに行かなくても、察知できます。私を悪者にしたいのも解ります。ご自身が優秀な御両親を持っていたから、優秀でありたいのも解ります。けれど、あなたは自分を河原乞食といった。私はこの言葉、知らなかったです。だから当初???と思いました。それだけです。調べてしって、どうして自虐するんだろう、と思いました。
けれど、あなたの音は大変クリーンで、特にフレットレスギターの腕は素晴らしいと思います。それにフューチャーしたアルバムはセールスを度外視して、本当に美しい。あなた自身が苦難な状況にある時ほど、オファーを受けて挑戦してみた曲は、人が望むものだから本当に美しい。それが世に浸透して言ってほしいと真に願っています。少なくとも私は、当時の音は脳裏にこびりついているし、それで救われています。その浸透していく事を、「奪う」という表現をしないでください。
人間性と仕事が出来るかどうかは別ベクトルです。御医者さんのお人柄がいくらよくても腕が超悪いなら受診したくないでしょ。逆にちょっと人間性に問題があって発言がまずくても、腕がすこぶるよくて患者が助かって、自分の人間性には問題があると自認しているなら、人に話す言葉が悪いと、治療以外の淡々たる説明以外はしないでしょ。すると、粛々と仕事している優れた職人、という評価になりますよ。
そういう意味で、「諦めないで!」←真矢ミキさん風にどうぞ。
それでは、精神科の診察に行ってきます。主治医にこう言っている人がいるのだけれど、私はその人が言うとおり、頭がおかしい(大脳皮質に問題がある・娘のように躁状態がある)のか!?と訊いてきます。専門家に訊いてきます。
※前任者は「少なくとも研究者として元同僚だった、医療専門家である担当医の言う事に従ってください。そうでないと診察の意味がなくなります。私たちも努力しています。患者さんの御話も傾聴しています。ただ、名前が大きいので、どうしても人が集まってしまう事は御承知ください。あなたもそれは御存知のはずです。どうか、そのような雑多で信憑性のない情報に振りまわされないでください。何が実害があったのなら、警察に行かれる際も資料提出など御協力をさせていただきます。安心して受診してください。」と言ってくれています。
斎藤一人さん、京都大学医学研究科の研究者のみならず、科学者や学者を敵に回したな
知ぃ~らないっ