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総合的研究 数学I+A (高校総合的研究)
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そこで、この本を執筆するにあたって、「数学を学ぶ」というときに必要な数学的感覚というか感性というか捉え方というか考え方が、「はしがき」日本語の文章で丁寧に書かれています。
丁寧な紹介文章なので、しっかり文書量があります。そうして、私が知らなかった語彙や言い回しなどが散見されました。お恥ずかしいです。
まずは、この数学的感覚というものを「正しく」表現された日本語文書を彼の意図通りに理解できる感覚・感性(力と言ってもいいかもしれません)を身につけなければならないと思いました。
彼の日本語で書かれた数学を学ぶという事の感覚的感性的理解は、決して簡単ではありません。←少なくとも私には難しいです。
けれど、この「はしがき」だけで、深度という意味で読み応えが十二分にあり、この「はしがき」が読み解ければ、ある程度の文学作品を読む力も培えるものと直感しました。←個人的直観なので私以外には適応外かもしれませんwww
これを読んで、確かに私が高校の時に数学を担当してくれた先生は素晴らしい先生だったけれども、とうに忘れてしまっている感覚もあるし、今一度、読み直すというか、履修するというか、そのような事をしたいと思いました。それが今の夢です。
人間の知的活動は、やはり感覚の説明も含めて、言葉で構成されている、と思えました。←指導教官がかつて私を叱り飛ばした言葉。私は基礎を大きく勘違いしていたのだと思います。
学会のコミュニティ(専門分野の事を指します)に理事として在籍しておられるの東京大学で学位(私のブログで学位と書く時は博士号の事を指します)を取られたN先生という女性の先生とかつて国内の学会で同室になった事があります。(そりゃあ有名な大先輩だらけの先生と同室だったので、新人のぺーぺーだった私は四六時中緊張しまくって震えあがっていましたwww)
「娘にね、”国語出来ないものが数学できるかー!”って叱り飛ばしてやったのよ。ホント解ってないんだから!」と仰いました。
だから、今は知りませんが、かつての東京大学や京都大学の数学ⅢやCまで試験範囲である学科を受ける受験生は、国語も本試験の科目に必須だったわけです。←有名な話。
最近、ブログが停滞していたのは、現実生活において、雑多な用件で忙殺され、相手があるからその分だけ相手の発する日本語文書と対峙するわけですが、
長岡先生の書かれる質が保証されていない文書と対峙しなければならないので、相当のストレスが私にはあります。結構、真面目な行政や医療の内容なのに、それを説明する日本語が拙いために、私は理解するのに相当苦労します。
たとえるなら動物や、まだ真の日本語獲得が出来ていない未熟な日本人の説明に対し、私は相手の数だけその分野で秀でた理解をしなければならないからです。
それなら、この問題集を理解する方が難解だけど、私のストレスはありません。書き手の精度がよいからです。
長岡先生のように私のブログは、
集客のためにリップサービスするわけでもない、
食べログのようなものでもない、
から、普通と呼ばれる人からすると、つまらないものだと思います。
もうひとつは、長岡先生をはじめとする、数学者が身につけている国語力に私が至っていないというか、ブログでああえて、一般的に理解できるであろう書き口に変換してしまっていたので、
読者がそれに気づいていない以上、いつまでも国語力があがってこないので、私がいつまでもつたない変換するストレスがついてまわり、
「不特定多数の流動的な読者」をもしターゲットに包含するなら、私は興味を持ってもらえるような生活スタイルではない、と断言できるからです。←おいおい。
この本を購入しなくていいので、「なか見!検索」でちょこっと「はしがき」を読破してみてください。「ほぉ~、数学と言うのは、そういう感覚世界なんだな~」と理解していただけると嬉しいです。
そうしてそれは真の専門分野の分だけある、と。
さて、今日は自己肯定感がとっても乏しい娘ちゃんがどうにかこうにか全て自分で決めて自分で相手と交渉して自分で行動を起こしています・・・
微細な成長ですが、それが解って、今、なんとなく様子を遠くから感覚で観察しているところです。
親として安堵できる何かがあると、私はモノ書きができるようです。