竹さん、ご心配おかけしています。
私ね、自我を抑え込まれた人なんです。
自我って、難しいように映るかもしれないけれど、二歳のころの第一次反抗期、
あの「イヤイヤ」が多いとか、「自分で!」が多い時期に最初の自我というものが芽生えるんですけど、
厳格?な家に育ったので、とにかく明治の終わり生まれの祖父が厳しかった人で、「こうあるべき」が本当に頑強でした。
『おとなしくて従順で三歩引いて周りを立てて芯は強いけれど我を張らず、ずっと美しくあり母性を兼ね備える。。。』
それには自我の芽生えは邪魔だったんですね。
けれど、そこには混同があったように思います。
自我と我儘は違う。また時代という概念がそこにはありませんでした。
時代は進み、女子も男子と同じ学校に通えるようになりました。昔は中学で男女は別ですからね。
そうして社会進出もするようになってきました。まだ実質はなしえてこないけれど、祖父の晩年には男女雇用機会均等法も制定されました。
けれど、それは名ばかり。白書を見ると、フルタイムで働く女性と無職の女性と、その配偶者(つまりは夫)の家事手伝い労働時間は、30分くらいしか変わらない。
私はそのような世代に生まれ生きて来ました。
けれど、どうやら、若い世代や今は違うようです。
SNSが普及し、自撮りという概念も生まれました。AO入試も出来、自己アピールをしてよくなりました。
その時に使う言葉はとてもキャッチーなものになっています。
私は自己紹介欄に国家資格を書いていません。ブログはヴァーチャルなプライベイト空間だという認識なので、社会的な事は必要ないと、学歴さえ伏せてきました。
けれどブログを続けているうち、集客に使っている人を多く見るようになりました。別段否定をしているわけではありません。
ですが、事実として、難解とされる国家資格ではなく、申し訳ないけれど、「ごめんなさい…知らないです」のような資格、つまり発行団体が国の直下の団体ではない母体のもので、なおかつ大変高額なもの(高価だという規制がかからないので)で、ネーミングが「さもありなん」のような資格です。
私は、研究職をしていたという立場から、語彙の等身大の意味に厳格です。「それは過大に表現しすぎ」「過少にしすぎ」「適切ではない」「そうだと断定するには科学的根拠が足りない(実際の実験。仮説をたて検証し何度も何度も統計学上有意になるまで繰り返します。信憑性の問題です。)」を、脳がもう溶けるんじゃないか、というくらい考え抜いて、それで、たった一語を選択し、適切につなげて文書化(報告書のようですね。論文の事です。)します。
そうしてそれを審査員のいる学会に投稿し精査されます。世界でもトップクラスの学会の審査員はやはりトップクラスで、それはそれはもう、的確にコテンパンにやられます。
そういう訓練をしてきても、合格をいただいて、採録する時の点数で、全体を発表していいのか、部分的なのか、採録ページの配分も決定されます。
質が発表に値しないと決定されたら没。その繰り返しなんです。中には審査なしの学会もありますが、それだと特に母校の業績認可にはならないのです。
「ん?誰のとこの学会?母体は?そこだけしか採録されていない業績を並べても、君、本当に学業(研究)してきたの?話にならん。」ってされてきました。
だからこそ、自由に発言できることが羨ましいという以前に信じられないのです。信じられないというか理解の外なんです。
何を根拠に自己決定できるの!? ってちんぷんかんぷんなんです。
そういう世の中なので、生きているだけで混乱するんです。
竹さん、だから私は、苦しいんです。ガス抜きのように、ただただ鎮かにしていて、上っ面というか、精査されていない情報は自分から抜かないと、実際にお腹を通したり、発熱したり、今は湿疹が表出していたりします。
ストレス、というヤツですね。
けれど、私にとっては根深いストレスです。だって母国語(言語)ですから。
よく「心」といいますが、それを思考しているのは脳なので、心は脳情報だともいえます。それに適切なシンボル・記号、つまり言葉でラベリングして人は知識整理をしていて、場数を踏んで、相手があって、それで臨機応変にその知識情報空間のなかから、相手が理解できる情報の小さな集まりとして、言葉を発するのです。
これらを瞬時に、意識することなく、的確にできるようになるには、訓練による運動回路を脳に構築するわけですが、もうそれをやってきていますので、
私が自覚するのは「あれ?身体が変だ・・・」になります。かなり重症になってしか表出しません。
で、やっと、「ちょっと待って?スルーしたり当たり前としてきたけど、どうもオカシイからストレスが溜まってるぞ???あっちゃ~☆自分の事が後回しになりすぎて、こんな風になっちゃった☆でも家の事情で入院出来ないしなあ~・・・」となります。
。。。。。と、ここまではやっと書けました。
もうどのような言葉でここに書けばいいのか皆目解らなくなってしまったのです。
昨今の多くの人は、責任転嫁します。
「言い方が悪いから私たちがわからない」と自分の責任を汎化もします。←実際には自分ひとりがついていけないだけ。
解らないなら解らない語彙を質問してください。
全部解らないならメモして全部辞書で調べてください。
知ろう、理解しようとするための質問は執拗であっても、私はリジェクトしません。ただ体調があったり、膨大な情報量を思考しているので、ちょっとお時間をいただく事があるだけです。それでも一般の方より速いですが。
そうです。私は、発達障害。定型発達ではない、という意味のです。偏差も平均ではありません。IQが150を超える人は人口の3%しかいません。そうしてそれらの人は、97%の人に理解されないので、それが心身症状に出てしまうので、理解しあえる、あるいは理解しあうために普通に努力をする集団の近くにいると、安全安心です。
それが世間で言う、難易度の高い教育機関や研究機関というだけの話です。
これは事実で等身大ですが、祖父の概念からすると、女子が高学歴であること、理系であること、配偶者に迎合しなかったこと、親より進学してしまったことなどなど、もってのほかの行為なので、
完全に受け入れられない、と、私は刷り込まれて生きてきて、人さまより私が一番人間として劣っていると信じきってきました。
ですので、どの方のアドバイスやコメントも「そっか・・・そうなんだ~・・・それが正解の一部なんだ~・・・」と取り入れているうちに、なんだか、自分の奥底のほうで整合性が取れなくて、心身症状に顕れてダウンします。
そう、相手の状況や資質を考えた上で、適切な語彙でコメントやアドバイスしているのではなく、ただ自分の経験談を自分にだけ通じる表面的にはおそらく日本語と思わしきなにやら言葉で書いているだけ。
それに気づかないのです。いや、気づくのが辛いのです。
だって、そうだとすると、これまでいっぱい言葉という情報交換がされてきたはずなのに、実はなんら、通じていなかったし、双方理解をする努力も工夫もしていなかったということになり、
何ら、誰とも、繋がった瞬間が無かったということになるからです。
生きていて、そんな辛い事、ありますか???
うんうん努力して、必死に今日を生きて、それでも理解されない。人生で1秒すら自分に真に共感してもらった事が無い・・・
なんて悲しい、悲しすぎる現実でしょう・・・
だから私は、有名だから群がる人も、ブランドだからと持つ人も、お金がかかっているからと向かう人も、混乱します。多いから混乱して生きています。
ただそれだけです。
竹さん、ちょっとくらい、説明になりましたか???
心配してくださってありがとうございます。
まだお医者さんでさえ、治せないので、対処療法として投薬されていてそれで休んでいますが、命の灯りは着実に小さくなっていくので、内心は焦るものの、どうしようもなくて、なんともいえない虚無感に襲われてうなされている今日この頃です。
・・・それではまた。