モツレク(=モーツァルトのレクイエム)、ベルレク(=ベルディのレクイエム)、そうしてこのラタレク。←これは完全に私の造語(^^;)そうして私が初めて参加したのはデュリュフレのレクイエムでした。(デュリュレクって略すのかなぁ…先輩に機会があれば質問してみよ~)

 

 

レクイエムという言葉は知っていました。辞書で引いても出てきますもんね。ところが実際に歌うようになって(参加するようになって)、式次第においてどの詞を述べるのか(送るのか)順が決まっている事は初めて知りました。

 

二時間、あるいは三時間かけて、荘厳に、そうして慈悲深く、愛を込めて歌います。そうすることで祈りを捧げ、魂に安寧をもたらします。この概念というか感覚というか、思い遣りというか、愛に驚き、感動しました。

 

実家は仏教です。父が亡くなった際にしっかり御経と向き合った感覚と違うように思います。仏教ってあくまで「教え」なんですよね。御経でも例えば阿弥陀経は”ここから西方、十万億の諸仏の国土を過ぎたところに『極楽』と名づけられる世界がある。”で始まります。

 

もちろん聖書も「教え」だと感じました。でも、レクイエムでは、厳密かつ狭義の「教え」とは違う趣のように思います。


旅立つ際に、安寧を神様からいただくために、天使や使徒やその他の色んな人間などが、祷りに裏付けされる手助けというか支えのようなものが含まれていると思いました。ある種神に問いかけるような、そんな部分もあるように思いました。地球が大きな家族のように思いました。

 

『この方はもう十分に修行とも言える人生の苦しみに堪えてこられた。もう解放して安寧を安息をどうかもたらしてください。』と言っているように思います。(今まで歌ってきたのはキリスト教ですが…)

 

ところが仏教って、「どれだけ仏さまが凄いか」「その方が作られた極楽浄土にいくにはどれだけの仁や徳などを積み、どこまでもどこまでも辛抱に継ぐ辛抱、愛を含む快楽などを求めるのではない」というような教えを葬儀の時も御経で延々と説法されている気持ちになり、余計に沈むように私には感じました。

 

『先祖を想いやらねば、親を尊ばなければ、先生を、年長者を・・・地獄にいくだろう』…と。結果として「皆等しく極楽浄土にいくのですよ。」といいつつ、矛盾しているというかヒエラルキーに厳格で、それが身分ではなく、徳を積むというか、仏教で教えられているところの「善」に従わないと、というちょっとした強迫が潜在しているように思います。(仏教を専攻してないので、素人感覚でスミマセン)

 

つまりは、あのですね、えっと(また前置き長すぎて解らなくなってきたぞ???笑)・・・西洋のレクイエムって音楽があって、物語のように式次第が進み、神に問い、そうして神のもとに行く事を生きている皆が応援するんですよね。

 

だから、昔のLPの頃、って、A面B面にどんな曲をおくか、その順番はどうするか、などがあって、アルバム全体のコンセプトがあるけれど、ちゃんとそこに時系列(線形の)物語が作られてた。その曲順で聴くからこそ、なんだか壮大な物語を読んだような、映画を観たような、とってもとっても充実感があったんですよ。満たされる何かが。制約があるからこそ満たされる何かが…ね。

 

それがCDになって、読み飛ばしが出来るようになって、数学でいうなら線形じゃなくて離散になった。「いいとこどり」が出来るようになった。配信も一曲ずつ買える。「この曲順だから、それぞれの曲の役割が果たされて、全体として良いものとなる」という概念や価値観がなくなったように思います。

 

喜怒哀楽が一枚にあった。物語があった。クラシックのようにあった。それがよかった、というか、人生のようにも映ったし。

 

便利になる代わりに、やっぱり大切な何かが捨て去られて風化されてしまっていく気がする・・・

 

そんな昨今に息苦しさを感じています。皆が無意識せずに「いいとこどり」「自己中」とかになっていっている気がして仕方が無いんです。ちょっとそこに行くだけの公共機関に居合わせても、それぞれに実は健常者が自閉的な言動をしているから、マナーがなりたたない。

 

そう思うと、何がしかの制約というか規則というか形式というか、型というか、キリスト教にせよ、仏教にせよ、律する手本となるものが人間には必要なもかもしれない・・・と思ったりもしています。

 

そんな混沌とした世の中で魂を送るとき、やっぱり安寧に包まれてもらいたい。

 

だから、レクイエムを聴きますし、歌えたらいいな、って思います。歌うのだから、文字にするのは恥ずかしいけれど、やっぱり自分が出せる一番美しいといわれる声で歌えるようには常に準備をしておかねば、と思うのです。

 

そういう想いで、いつも練習しています。

 

どうして、こんな事、今、書いちゃったんだろう????

 

はて?????

 

御気分を害された方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。

 

私が、あまりに価値観の違う色んな発信物が10年前に『情報爆発してそれは大海のようになるから航海できるような知識知恵をつけておかないと溺れてしまうぞ』と研究されていたことが現実になってしまって、まさに私が家庭の事情で専門機関に居れなくなりましたから、ポーン!と大海に放り出された状態になっちゃってるんでしょうね。。。

 

泳ぎ方や助けてもらい方を覚えないと・・・って思うんです。

 

ダメでもレクイエムを祷りに変えて歌ってくださる方に後を見つけてもらえたら幸せですけれど、そうじゃなかったら安寧は来ないと思います。そう思いつつそうなった私を見て、遺された子どもたちはやっぱり傷つくと思うんです。娘息子にも安寧(尊厳)というものがもたらされない・・・それはやっぱりどうかと思うんです。

 

いのちのことに一番向き合うお盆の時期だからこそ、書いたように思います。私、人につけられたレッテルに迎合しないと生きてこれなかった過去があるので、自分の事が一番行方不明で解りません。女子は自分の確固たる自立した意見を持つことは文化的にタブーとされてきましたもんね。。。

 

生きにくさ、息のしにくさは、自分がどう生きるのが自分にとって自然(適切・適応・適度・相性が合致するなどなど)か、解っていないし、殆ど実現していないからでしょうね。。。

 

さ、これから、取り返そうかな、って感じです(苦笑)そろそろ、卒母したいかな?卒娘もしたい(苦笑)卒嫁と卒妻はしたけどね・・・まだまだ私にはたどりつかない・・・なんだかたまねぎの芯みたい(苦笑)

 

着地点がそれこそ乱れまくってスミマセン。もう書くことが無いし、長いのには気づいているので、このへんで、そろそろ夜明けなので、ちょっと今日を迎えられたという意味で安堵したので、仮眠取ります~☆おやすみなさいまそ~♪