気楽になることへの罪悪感 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

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物心ついたときから気楽なんて言葉無かった。

 

どうしてだろう???

 

・・・わからない。

 

うんと、遠い昔・・・亡き父が、全くの我流で、ギターで演歌か何かのメロディを爪弾いていた記憶がある。

 

白いギターだったように思う。

 

縁側だったように思う。

 

私が三歳とか、そのあたりだったように記憶している。幼稚園の年中か年長で東京に引っ越したその前の家での記憶。

 

おとなりのおばあちゃんが息子夫婦にと用意した新築の平屋。事情で息子さんたちが住まなくなって、それで貸家にしたらしい。

 

まだ土がいっぱいの時代。木の門をはいった敷地には、すぐ畑があって、その脇の細長い通路を抜けると平屋があったように思う。

 

当時としては贅沢な平屋だったのではないだろうか・・・

 

おばあちゃんは母屋に住んでいて、弟が生まれてからひとりで庭遊びをするようになった私の相手を畑仕事の合間にしてくれた。

 

おばあちゃんは決まってライオンの細長いコーヒーキャンディをくれた。おばあちゃんの休憩の時に一緒に食べたように思う。この味が家主さんのおばあちゃんの思い出。

 

平屋の周りには庭があって、カエルちゃんやミミズちゃんや、色々いっぱいいたように思う。両親が大きな虫やなにやら出たと、大騒ぎしていたように思う。

 

父がギターを爪弾いたのを聴いていた記憶はおばあちゃんの記憶よりもっとかすれている。

 

その頃は、大きな虫がお風呂場に出たとか、大騒ぎする以外は、おだやかに過ごしていたように思う。

 

私が門のお外に出れるようになって、近所の子どもたちと遊ぶようになってから、なんだか騒がしいというか、緊張ばかりの家になった。

 

もしかしたら母は、あまり人づきあいが得意な方ではなかったのだろうか、あるいは、生まれつき不器用な私が外に行くとトラブルばかりで冷や冷やしていたのだろうか、と思ったりする。

 

とにかくそれからはずっと家が緊張状態になった。いつも母は怖かった。いっぱい怒られて、行動が制限されていった。

 

あの父が、ギターを爪弾いたというのは、たった一回か二回。音楽音痴で我流だから、もしかして調弦出来ていたのだろうか、と今なら思うが、私が音楽を始めたのは、東京に移ってからだから、時系列を逆に戻れないからどうにもならない(苦笑)

 

そう、緊張しかなかったと思っていた我が家に、ほんの少しの期間だけ、穏やかな時期があったのだと思い出した。

 

弟が生まれる前、私が一人っ子だったおそらくその半年か一年が人生の一番古い記憶で、わずかな穏やかな期間だったのだろう。

 

いつからか、以来ずっと緊張の人生。

 

他人と比較され、いつも一生懸命、寝食忘れて、と、言われるようになった人生。

 

今回、定期公演のお知らせで、25,6年ぶりくらいに大学の同級生のある女子とメールで短い会話が出来た。

 

私たちの年齢になると、そろそろ親の介護に突入。おとうさまが手術なさったらしく申し訳ない、との連絡。

 

彼女はミスコンに出て賞をもらうほどの可愛い子で、お嬢様。それでいて、とても思い遣りがあって、どちらかというと、ひとりだけ浪人して私学になってしまい、親が滑り止めの大学になったので、人生を全否定してくれた(苦笑)

 

大学にいっても、その雰囲気が出てしまっていたのか、孤立していた。もしかしたら私から心を開かなかったのかもしれないけれど、入学初日に、付属からあがったリーダー格の女子に突然濡れ衣を着せられた事に相当驚いて、怖くなってしまったのかもしれない。

 

そんな私はずっと不器用に大学とつきあっていた。途中本当に辛くて辞めたかった。もう一度隠れ浪人して目標校に受かりたかった。

 

けれど、父は口先だけ時代を先行する事をいいつつ、『女子は浪人するんじゃない』という古い価値観を遂行する人だったからダメ。否定され続ける大学に通う苦しさ。あの頃から摂食障害が出だした。

 

そんなころ、連絡をくれたYちゃんは、他の私立高校から推薦で入学したのだけれど、ほとんど徒党を組んだのに、そうはせず、フラットな距離でいてくれて、ある時居酒屋にさし呑みに誘ってくれた。

 

『ずっと、こうしたかってん。お話したかった。』って言ってくれた。

 

ミスコンのキャリアがあって、大学でも有名な子に声をかけられて、醜態恐怖症でもあった私は、驚いたけど、嬉しくて、呑んだ。色んなお話をした。

 

周りの人が理解できない私なりの思い遣りを肯定してくれた。

 

今回も、『ずっと年賀状だけのやりとりで、文もなかったから、そういう付き合いをするものだと思ってた。きっと、うんと勇気をだして連絡くれたろうに、父の事があって行けなくてごめんね』という言葉だった。

 

この一行が全てを見てくれていたように私には思えた。

 

ありがとうYちゃん。そう、同級生でひとりだけ浮いて、結婚も異端な相手で、DVになって、実家と通じ合えなくて、京都に移り住んで、なんというか、合わす顔が無い、という感覚でずっといた。

 

それを見抜いていたんじゃないのかな、って思える言葉だった。

 

だから、私も正直に書いた。

 

『大きなホールとか、演奏会とか、有名とか無名とか、本当はどうでもいい。私も、娘の自傷がエスカレートして、大きなそれになって、救命救急で救ってもらって、それでも娘の精神がまだまだ落ち着かなくて、ずっと緊張状態であった人生の中でもとりわけ凄い状態になって呆然自失に至ってしまった時に、

 

(たまたま父が卒業した同志社の創設者・新島襄の旧邸宅近所の洛陽)教会にふらふらと入り、ものいわぬマリア様をみつめて、母としてどうしたらいいのか、自問自答というか、声なき声を聴こうとして、その声なき声を聴くためには、美しい讃美歌が歌えるように訓練する必要があるのかもしれない、と、なんだか思っただけ』っって。

 

事実、天井の高い教会でステンドグラスからもれる光の中でどこまでも清んだ声で天に昇る階段を作りたいと、ただそれだけを思った。もしかしたら、娘が昇るかもしれなかったから。

 

それが本当のきっかけで、合唱に入った、それだけだから。

 

チケットノルマだって本当は嫌。自分の想いとの折り合いがつかなくて、それがストレスになって鬱になって、この冬は合唱団に行こうとすると足が竦んで、心が萎縮してしまい、休団になった。

 

それでも、せっかくの御縁だし、お休みしている間にパニック発作で過呼吸が再発したから、やっぱり歌は身体のために続けなきゃ、と、復帰。

 

どうしても団がするというのならいいけれど、もう自腹で結構、とか思ってた。でも、これがきっかけで旧友に連絡するのに勇気が出せた事を思うと、(合唱団の)運営とか、演奏会、とか有償とか、ちょっとした責任とか、って、悪くないかもしれない。。。って思ったりも。

 

そうしてYちゃんと久しぶりにカタコト話せた。事実、少なくともYちゃんがそうしてくれなかったら、私は孤立から大学を辞めていたと思う。

 

お父様のご回復をお祈りしています。

 

またいつか、本当にまたいつか、会えるといいね。

 

この人生を生き抜いて来た同志で。いえ、ずっとつかずはなれずYちゃんの大きな愛に助けられて来ていたんだと改めて気づいたよ。

 

気づきをありがとう、Yちゃん。

 

お礼しか浮かばない。。。

 

ご自愛してね。