本当にボキッっと折れたので、覚えていなかったんですが、
と、国際会議の査読つき(要は海外の運営委員の先生に審査していただき、採用されるかどうかの試験みたいなもので合否があります)で採択された論文(海外の電子ジャーナルに有償で掲載されています)に通って、発表してたんだ~・・・ってな事が指導教官(京都大学名誉教授)が纏められていた大学教員一覧の中にありました。
・・・ってか私がいました・・・他にも、
だとか、(他にもあったと思います・・・情報処理学会のHPにも私が何人かいると思います・・・www)
他にも、
表彰されまして、図書券5000円分いただき、子ども達に絵本や図書や文房具を買ってあげた記憶がうすぅ~くあります。
ん~・・・・指導教官は、おそらく取りこぼしがないと思いますが、何百本も査読つきの論文や、招待講演、発表などをされており、かかえている学生も山中先生以上におありでしたから(報道されないだけ)、律儀に列挙していただけているとは思っていませんでした・・・すみません。
当時は、従兄が自分の誕生日に自殺したと連絡がありました。その数カ月前から多忙による鬱状態は出ていたのですが、外部資金(他の学会に研究の立案計画が認められ獲得できる研究予算)があったため、手を休めるわけにはいかず、朦朧としたなか研究をしており、実績を提出する必要があったため国内ですが、論文にして研究成果を発表する必要があったのです。
ここで大切な事があります。論文はただ書けばよい、というものではなく、採択された場合、筆頭者が(第一著者)学会の舞台でプレゼンテーションをし、聴衆からの質疑応答に応える、という行為を完遂して初めて、正式に発表されたとみなされ、業績にすることができます。ですので、体調不良の中、頓服の安定剤を身体に放り込み、閉所恐怖症がでてしまっていたなか、飛行機で現地に飛びました。またどの交通手段を使って現地入りするのかは大学の規定で決まっており、遵守する必要があります。
・・・と、とにもかくにも、本当に厳重というか、厳密というか、凄い管理というか、まさに重箱の隅?そんなもんいつつつかれても何も無い状態にしておきなさい、みたいな業界なので、神経がずっと張り詰めていたんですね。
でも、これは、私の発達障害という特性には良かったのです。緻密な事をコツコツやり、多重な規則の中で、過集中する、というのは、得意とするところです。偏りが激しいからこそ研究者で専門家なのですが、そこに『ふつーのおかあさん』を、業界の事も病気の事も、障害の事も、特性もなにも御存知ない、世間一般というマジョリティのみなさんに枠はめされてしまいました。
特に肉親:母親から、強制や矯正するのに、糾弾という手段(特に抑揚が激しい音声)を使われて育ったので、聴覚過敏かつ非論理的なものは恐怖に感じる私は、いつ、彼女の逆鱗にふれ、どんなスラングが飛びだし、自分の立場を誇示し、人の力で子どもを支配するか、訳がわからなかったので精神が崩壊しました。
従兄の報せも、『どうして今こんな時に(身体の不調があるけれども子ども達を喰わせるためには自分の特性を考えた時に譲れない有能な人達が模索しつくした道のやりかた)』って思いました。
そりゃ、外部資金を獲得し、実績が無かったら、業務上横領になってしまう知識も無いでしょう。また、そのような仕事に就いている(博士課程の学生は学生という身分ですが仕事をプロとしてしています。何足のわらじだったんだ・・・orz)ことも、事実として理解できる知能を母はもっていませんし、訓練もしていません。
大切な時期だから、孫にも関わることだから(私がこの手で育てながら学生と仕事をしていたので)、今は私が母としておばあちゃんとして踏ん張ろう、じゃなく、『そんなん知らんやん!!!お父さん側の甥っこやん!!!私関係ないやん!!!』と言い出す始末。
私・・・母に頼んで、父と結婚してくれ、って言えませんが。まだこの世にいませんでしたよ???しかも自分がみつけてきた相手で、祖父母に自ら結婚したいと言ったのでしょう?父を誘ったのも母でしょう???
・・・ほんとに、知りぬぐいや、自分の事すら保てない親(事実)なので、事情が事情なのに、電話口で叫びだしました・・・orz
急いで従兄の方へ連絡し、事情を説明しました。父方は、父を大学生の時に同じ京都に下宿させてくれた人たちなので、実際には大学には通ってないけれども、言っている事を信じて理解してくれる人たちです。機会はなかったけれど、末の弟(父)に経済と勉学のチャンスを早くになくなった祖父母に代わり、与えてくれた伯母たちです。
そんなこんなで、学生としては倒れてからも、子ども達の不登校やいじめのケアや、自治体への働きかけ、など、本当に色々奔走していました。自分の事になると倒れていましたが、そうしていました。・・・すると、このデータから9年経って居た事になります。
困っている人さまの何か貢献になるなら、という、想いで、研究もしていました。人より仕事が出来たいとか、給料が欲しいとか、名誉が欲しいとかではなく、発達障害の特性を活かして、それでも社会貢献したい、元配偶者が放棄遺棄した子ども達を育てたい、という強い願いから、色々編みだした進路でした。まあ、韓国ドラマの「トンイ」みたいな事を(当時は無いドラマでしたが)やろうとしていたんですね~・・・
そうしているうちに、誰も信じられなくなりました。一万人目にもしかして現れる理解者を待つ体力気力がもう尽きていました。
体重も40kgを切り、私は指導教官に呼ばれました・・・
『もう、身体が心配で仕方ない。病院に行きなさい。OBも皆言ってる。あなたが倒れたら、あなたしかいない子どもさんたちはどうするのですか?』と。
そうして、私は、研究を一旦止める事になりました。。。。