この曲、知って練習して、年末のキャロリング(病院の慰問)で歌わせていただいてから、ときどき突然頭の中で鳴ります。

 

ブラームスも、あの音楽室の肖像画しか知らなかった(苦笑)

 

いっぱい、教えてもらった、合唱団・・・

 

行けてない・・・

 

今の私には抱えきれないんです。特にマタイ受難曲のような大曲は・・・

 

苦悩の人間として哲学的に考え続ける事を止められない苦しむ実演4時間近い大曲とその深い世界観。

 

歌いながら苦しんでます。もともと苦しむ事に離れているので向き合おうとしていましたし、出来ていました。けれど、昨年の10月の合宿の頃、それまでの娘の激しい病状のケアで奔走していた疲れが一気に出たのか、屈指のエヴァンゲリストである北村敏則先生のレッスンを受けられないくらいの不調に見舞われ、

 

以来、予測はしていたけれど、折れ方が激しくて、他にもいっぱい精神的に抱えてしまって、以来ずっと強い不調です。

 

正月明けも京大オケのマーラーの復活仕上げの段階で倒れてしまいました。今もそうです。

 

今の私には宗教曲さえ遠くなっていきます。

 

別段もともと板に乗りたくて始めたんじゃないです。皆さんと声を合わせる事が出来る幸せ、事情があっても受け容れていただける幸せ、そうしていつの日にか何もおっしゃらないキリスト像とマリア像に声楽的に澄んだ声をただただ捧げる機会を待って居るだけなんです。体力も呼吸法から鍛えられるだろうから、寝た切りとか、過呼吸が起こらないと信じて。

 

 

 

フォーレも貼っておきます。

 

歌詞の深い意味は解らないけれど、教会でこのような旋律が絡まる聖歌隊の声が聴こえたら、きっと心は鎮静すると思うのです。

 

生きるのに頑張りすぎて生きて来ました。苦しいのはまだ頑張りが足りないからだ、と、どこかで信じている、というか思い込んでいます。

 

お医者さんや、こころの在り方を御存知の方には、頑張りすぎているから、苦しんだよ、って、御休みする時期ですよ、って、身体から警告があるんですよ、って。

 

でも、なんだか、どこかで、まだ障害者になった事、母子家庭になった事、色々出来ない事、良妻賢母を実現出来なかった事、研究者になれなかった事、親孝行な娘でなかった事(親の価値観とは違ってしまった事)、を、

 

他のどなたにも思わないけれども、兎に角、なぜだか理由も無く自責してしまう自分がいるのです。こころのクセかもしれないですけれど、他人を責める自分にはなりたくないから、理不尽な事をする人に対しても、自分が誘発したのではないか、と、どうせ完璧でないんだから、確率は0ではないのだ、と、責めてしまうんだと思います。。。

 

つける薬ない性分だと思います。。。

 

ただただ、教会に行って、ステンドグラス拝見して、イエズス像とマリア像と沈黙を交わさせていただけたらいいのですが、歌は祷りのように捧げたいと・・・ごめんなさい・・・きっと祷りという形をまとった欲ですね・・・

 

やっぱり、ただ、そこにいたいのだと思います。世界観に没入したいのだと思います。同じ波長でありたいから、歌声の波長で確認したいだけなのだと思います。。。