ショックで寝込んでました。直接被害を受けていないのにアフォです。ごめんなさい。
福島で地震が散発的に起こっています。宮崎もありましたね。
1月は阪神淡路を思い出してしまうように、
この時期はあの日を思い出してしまいます。
被災された当事者の皆様が一番大変です。でも、何度も書きますが、第一報を診察室で患者として主治医への専用回線でモニタに映された情報を見たとき、
どうしても理系の知識からある程度の推測が出来てしまい、これまでにない震撼が自分を襲いそのまま固まってしまいました。
急に診察の打ち切りを言い渡されても勿論だったし、それから何度も先生は被災地に入る精神科医チームに属しておられたので、自宅に連絡が入り変更を余儀なくされても「大丈夫です。向かって下さい。先生もお気をつけて。」と言えました。しんどい時期だったので本当は嫌だったけど、被災地の方のほうが大変なショックです。急ぎます。踏ん張ることが私の使命だと積極的に意識的に迎合しました。
中断した時、待合いに出たら東京のワイドショーが報道センターとつながっているところでした。当時の震度は5くらいではないでしょうか。それでも首都はもう大パニックを起こしていました。如実にテレビに映っていました。出張先に向かっていた仲間の無事を確認した際、基本は現地に留まり、現地の指示に従い、三日は様子を見る、辛抱する。連絡だけは回線で取る、を徹底していました。指導教官は新幹線の中、横浜あたりで缶詰になられたそうです。それでも電気の供給が続いていたので、新幹線の中で研究室のスタッフと学生の現在地を様子を把握し、大学に報告する事を続けられていました。大学の研究室に残っていた博士課程の学生は先生がそのような状態であるのを知り、取りまとめの代行を率先して取ってくれました。当時休学していた私の事でさえ、仲間だと認知してくれ、無事かどうかの確認を取ってくれました。
東京への出張組は未来科学館で大きな国内会議があったのですが、そこに待機し、24時間後、上洛する教官、実家が東京にあってその様子を見にしばらく滞在するという学生がいましたが、東京に在住の多くの帰宅難民になる事は自ら避けて行動していました。(東京の皆さんごめんなさい。震災時はそういう行動をしてはならない、としつけられています。)
待合いではテレビをただ傍観している患者さんたち。体調が悪いので、長いすにぼーっと座っていたり、横になっていたりされていましたが、これからの事を推測する予備知識はもっていない人ばかりのようでした。(事実だから書きます、ごめんなさい。)
私はもうショックを通り越して、内心『どうしてこんな事になるの』『先週の沖のM7が本震じゃなかったの
』『神様は本当は居ないんじゃんか
』など思いながら身体が震えるのを堪えるのに必死で、慌てて処方された薬を持って帰宅し、傍観している皆の中を飛び出し息子に伝えるために帰宅しました。体調が悪い中そうしたので転倒しないように、それでいて必死に帰りました。
当時は、テレビが壊れていなく、視る事ができたのです。ショッキングな映像がトラウマやPTSDになる事も予備知識として持っていたので、それを繊細な私と子どもは回避する必要があったからです。
阪神淡路の時の火事を含むあの都市直下型の映像もまだ心をざわつかせます。いっぱいいっぱい映像を視ましたし、従姉が被災しました。友達も被災しました。北摂の被害も相当でしたが、西宮、伊丹、そうして特に長田は火災もありましたし、三宮は大きなビルが見ごとに崩壊もあったし、倒壊もありました。三日目の余震の事です。1月17日、センター間近だったし、先生が当時勤務されていた神戸大学の学生も多く犠牲になりました。
当時、ずっとついて報道してくださっていたNHKのアナウンサーさんは、後に出家されたと聞きます。本当に修羅場でした。今のようにネットが普及していなかったので、報道機関のそれしか情報を得ることができず、仕方なしに視ていましたが、それが心の傷になった人は多いと思います。透析患者をいかに運ぶかも議論になりました。ある階がぺちゃんこになってしまった病院・・・都市直下型の恐ろしさです。東北のそれとはまた都市の特徴からして違うものです。
もしかしたらテレビを視聴出来なかった人(当事者の方)の方が、ある側面においては、視覚情報処理に脳の八割を使う事も無いので映像からのトラウマは無いかもしれません。事実、新入社員が会社に電話してきて「はー・・・やっと電話繋がりました・・・。無断欠勤になってしまっていてすみません。あのー・・・道路とか凄くて・・・駅が潰れてて・・・あのー・・・会社に今日は行けるか解りません・・・。」って言いました。同僚が電話を取ったのですが、『たぶん、まだ知らないと思うけど・・・今日だけじゃなく、しばらく来れないと思うのね。ちゃんとフォローしておくから、上司にもちゃんと相談して対応してもらうから、今は御家族さんと一緒に居た方がいいよ。はよ、帰り。気をつけて帰るんやで。』って伝えたと言います。そのような状態でした。
六年前ほ東日本大震災では、あのNHKさえ、しばらくしてからでないと、『今から衝撃的な映像が流れます』という文字が流れませんでした。残念でした。特に子どもは現実と夢がまだ分化していない時期があるので(サンタクロースを本当に信じる時期など)、映像でPTSDになる事を京大病院の小児科で研究されていたのを知っていたので、どうしたものか、と思いましたが、それらがこの国に一般普及していないのなら、特に繊細な特徴を持つ我が家はせめてテレビは見ないように、と息子に伝えたかったのです。・・・というより私がダメでした・・・
予備知識があれば必ず理論武装になってよいのではなく、あるが故に受けてしまうダメージがある事も知っていただきたいです。
今日は朝のブログをアップしてからリアルにショッキングな事が家族間にあって、多感な私は寝込んでしまいました。
頓服の薬も何も飲んでいないのに、あるいは飲んでいないからかもしれませんが、何だかすべての機能が停止したように伏せって動けなくて、
娘からの仕事帰りの電話にも出れたわいいけど、呂律が回らなくて(心労だと思います)、ガラケーの簡易ニュースで地震を知って、また倒れています。
感度が高いにも程がある
このセンサーが私のいのちの一部。離れない。偏見を受けようと、死ななきゃ切り離せないんだから、持ち合わせるしかない。
そうしてGABA受容体に効果がある御薬が私にはやっと合う事を見つけたのですが、なんでもかんでも安定剤を全体悪として(処方の仕方や飲み方など、患者の状態によって流動するものなのに)決めつけ、処方された時に京大病院で服用しても、科の名前が書いてある袋を見て、顔色が変わる人が今でも多く居ます。
それで、頓服を服用して休む自分を拒否するというか責めてしまうのです。。。
大丈夫ですか 特に現地の繊細さん(高感度さん・自閉症スペクトラムさんなどなど)、安心したいですよね・・・いち早い安らぎを提供されたいですよね・・・神経が張り詰めている日々は本当に参ってしまうものです・・・ご理解お願いします。