♡あたらしいしんさつけん♡ | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

 

物ごころついた時には、しっかりしなさい、と育てられたので、早くに親には精神的に甘えない育ち方をしました。

 

両親ともにきょうだいの下なので、上に甘える育ち方をしたので、実家では弟を含めた3人の親の様な心境で判断力を身につけました。はい、ACだと思います。スピリチュアルでいうとインナーチャイルドがいつもさみしんぼうで泣いています。

 

けれどさっきの記事に書いたように、泣くことは許されなかったので、自分の感情は押し殺すけれど、周りの顔色をうかがう育ち方をしました。

 

なので、根が小さい子どものまま育っていません。自認しています。見た目が大人で、御母さんで、学歴がそこそこあってしまうので、信じてもらえません。

 

医療機関の人は、解ってくれます。特に医療機関のやさしい受付の御姉さんなど、助手的な立場の人は。

 

診察券無くちゃいました。発達障害屋さんには(ちなみに、なんとか屋さんも私の口癖です。例:警察屋さん、消防屋さん、などなど。)、よくあることです。ゴメンナサイ、して、新しいのを作ってもらいましたが、もう長年御母さん、しかも過大な夢のような御母さん像になるべく身を粉にして来たので、もう精神が潰れちゃったんですね。根は小心者なのに、よく、ここまでやってきたのだと思います。

 

私自身甘えていないので、どこまでが子どもの甘えで、どこからが執着で、どこまからが迎合で、どこからが共依存なのか、解らないのです。実母も甘えていない、と言いましたが、彼女は変わっていて、「甘えない親にしたら可愛くない子だったと思うから、私は実子に甘える事にした」と、ワケノワカラン転嫁を信念をもってする人でした。自分のみを信じていたんですね。

 

そうなると、私は親にも子どもにも他人さまにも甘えていないので(甘え方も解らない)、八方塞がりのまま育ちました。発散?したことないです。そんな隙なんてありませんでした。ただただ親や先生や先輩や、年功序列というか、男女差というか、老いては子に従うというか、とにかくいつも従属な立ち場で、自分の意志なんぞ尊重されるどころか持つのは悪のように生きて来ました。

 

意志=我儘とされていたんですね。

 

例えば、欲しがりません勝つまでは、という言葉があったそうですが、学徒出陣の際、この界隈では京都大学の学生がそうなったようですが、ちょっと観察すれば「こんな頭脳とこんな軍備で本気で敵と戦おうとしているのか!?」と解って愕然としたのだそうです。無駄死にしかならないと瞬時に解ったのだそうです。噂の段階で解っていたけれど、国にはそむく事ができず、百聞は一見に、という言葉もあったので、向かったところ、これほどまでに格差が酷い状態で、日本は沽券や国力を誇示しようとしていたのか・・・まさに井の中の蛙、いやそれ以前に無知過ぎる・・・と思ったそうです。

 

水爆を持つ相手に、欲しがりません、って、勝てないんだから、欲しがりようがないんですよ。

そんな価値観を押し付けられて、それが唯一の正解で、そうじゃないと投獄されたというのですから、なんとも愚かな思考の国だったのでしょうね。そうしてあの時幼少だった人達は、その概念を覆す事は、騙されていた親の無知をも露呈することになるので、認められないのです。

 

そりゃ、誰だって自分の親はスーパーマンみたいに思いたいですよ。私もそうでしたし、今、私の子ども達が無理難題を言うのは、私は不死身で歳を取らないで、能力も向上しかなくて劣化がないものだと「したい=願望=欲望=夢」のだそうです。

 

もうそれが息苦しくて息苦しくて。物ごころついてから、私を除く私の周りは私を潜在的に支配しコントロールし迎合させてきました。無理難題をいってきました。それなりに叶えて来ました。血反吐を吐く努力をしても、それでも頑張りました。京大にいけたのだから、東大にだって、という、全然特色や特徴や趣が違う大学を、線形に序列させて(混同して)欲を助長させる人間しか周りにはいませんでした。

 

それが私を潰した一番の原因だと私は今は整理がついています。

 

なので、いつもずっと付き添いなので、個人的に病院にかかる時くらいは、独りになって、私個人に対して、医療機関の人に雑談でもいいので、声かけをしてもらえる事が、アイデンティティというか個人という存在と認めてもらう唯一の事です。

 

御願してみたら、子ども用の診察券で再発行が出来るといってもらいました。御若い御姉さんは子どもようなので、学童用の学というハンコがあってちょっと目立って御嫌かもしれないから・・・とおっしゃったので、私は内面子どもだしシールは今でも大好きなので、その部分に貼って下さい、ってお願いしてみたらOKでした。そうしてシールは受付の御姉さんに選んで欲しいです、って御願してみました。パフュームのキラキラのシールを二枚も貼って貰いました。

 

お洒落なんて色づくな!!とずっとさせてもらえなかった人生です。音楽の道にすすみたくても、行くなら絶対ピアノ科だと母が決めつけて、「個人で先生を雇う受験用の金が無い!第一グランドピアノが買えない!調律師どだれけかかるの!卒業しても食いぶちどうするの!」で終わりでした。あの時声楽家にシフトしていたら、中学生のうちに楽典やカデンツ、調音、などなど修業が終わっていたので、準備するにはとっても時間があったはず。

 

普通の社会人になるように、とのことでした。両親とも文系でお金が好きだったので、経済の方向に進んで欲しかったみたいですが、自然科学が好きだった私は、それだけは譲りませんでしたし、一気に沢山機械的に覚えるには私には学習障害があったのです。(そう思うとよく共通一次受けたなあ・・・オールマイティじゃないと受からないじゃん!)

 

それじゃあ、と今度は、母は薬学をすすめてきました。看護師は母方の祖父の戦争体験で、ダメ、喫茶店のアルバイトも水がでるからダメ、結局塾のアルバイトしかダメでした。そうして看護師も医師のいいえさというか、家の格でおそらく浮気相手にしかならないだろうからNG。

で、薬学だと、いつか免許をとったときに、小さな薬局に名義をかせる(今は違法ですよ!?)と心底信じて、そうなると何もしなくてもお金が安定して入る、とガチでしんじて、私の得意分野や探究したいことなど無視で薬学部、とつよくすすめましたが、受験直前に動物の解剖があって、この界隈の薬学部はラットかうさぎか犬となっていた事が解り、小学校の時のフナの解剖でさえ、教室の外に飛び出して、数日教室に入れなかった私は、当日ドタキャンし、実験の無い、被験者(人間も動物も)のない、数学科(理論・古典)に進学したいと懇願しました。

 

そもそも進学高校に行ってしまったために、弟に貯めておいた奨学資金を私に前倒しするから、損したく無い、と、勝手に進学先は国立にしてしまったし、将来金を稼げるためには、なんのつみもないちいさな命の犠牲もいとわない考えの親が本当に怖かったです。

 

だから私の育てられ方は、こうなのか、と、ずっと生きた心地がしない家でした。親の意にそぐわない事がおこると、特に母は、私の命や私の人生を返せ!と言いました。父と結婚したいとお願いしたのも、この家にうんで欲しいと御願したのも、私ではありません。

 

・・・そんなこんなで、内的に生き直しというか、このような診察券の小さな事で、ちょっとずつでも瀕死の精神に小さな絆創膏に成りえるのなら、御願していこうと決めました。

 

顔や学歴や持っている語彙、知識に似合わず、可愛いもの、もこもこしたもの、やわらかいもの、やさしいもの、が大好きです。ずっとずっと欲しい、とさえ、言えなかった。。。

 

ご理解いただけると嬉しいです。もう、もう、自分をあの小さい子どもから育ててあげてもいいですよね。