井上さんと私。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

亡き父の部下に、井上さんとおっしゃる女性がいらっしゃいました。

 

女性の多い職場でしたので、女性ならではのなんとも恐ろしい競争があったみたいですが、

井上さんの取り組み方はそのようなものではなかったようです。

 

律儀に送って下さる御年賀の、それはそれは達筆な事。私は子ども心に美しいと思い新聞紙に何度も真似しました。

 

父がいつもいうのは『あいつは本当によくできる』でした。人事役員を兼ねており、滅多に人の事を認めない父がいうのだから、凄い女性がいるんだなあ、と思っていました。

 

父の葬儀のとき、井上さんは来て下さいました。病気で早期リタイアしてので閑散とするのか、と思いきや、200人は収容できるそこで(葬儀を派手にするのが嫌いな父でしたから私個人は親戚の決めた事にしぶしぶな感じでした)、本当にたくさんの昔の御仕事仲間が来て下さいました。その中に井上さんがいらっしゃいました。なんと初対面です(あるいは私が小さすぎて覚えていなかったのかも・・・いやいや初めましてとおっしゃったように思います。)

 

母も私も父の普段のセリフを耳にしていたので、『よく来てくださいました。貴女が父がいつもいつも”すごい仕事が出来る子がいるんや”と言っていた井上さんですね。』と申しました。

 

すると井上さんは、驚いて突然号泣なさいました。「私、ずっとずっと怒られていて、てっきり嫌われていると思っていました。ですので正直本日も来させていただいてよいものかと思っておりました。まさかそのような事を言って下さっていたなんて・・・」と膝から崩れられました。

 

父の悪い癖です。伸びる、と思ったり期待をかけた人間には、徹底的に崖を高くしていき、そこから突き落とす。やがて登ってくるのが解っているかのように。本人には言わずに。だから井上さんはてっきり嫌われていると思っておられたそうです。

 

そこで僭越ながら私、登場。

 

私も父に褒めてもらった事がありません。母にもありません。母は単に私に対して嫉妬心が無きにしも非ずだと思います。母方の祖父が甲種で徴兵され、当時メンタルフォローもないまま社会になじめないままの戦後の生活は大変だったと思います。徴兵されたのだから、そこの規律がしみついていて、やっぱり暴力だったと思いますし、一旦敵と認識した相手にはとことんだったようにも思います。私の父は祖父に嫌われていたので、そっくりな私は皆がみていない時につまようじで手を指され続けていて、それがコミュニケーションだと信じて疑わない呆けた祖父でした。厳格でしたから母は祖父にそむく事なんて一切ありません。そんな祖父でも父親なので、高齢になった時は祖母がなくなっていたので、桜をみせに連れて行ってあげたい、となぜか私がされた事を知らない母は私に引率を頼みました。(そう独りでできないんです。母。)

 

というわけで、父と母の私を褒めないスタンスは異次元でした。私もずっと褒められませんでした。小さい頃から、叱られて解せない様子が見て取れた時は、『言いたい事があったら言え!泣くな!泣いたらなきごえで言ってることが聴き取れない!!』と。ずっとそうして育ちました。

 

夫婦仲が悪かったので、そのうちに帰らない人になりました。晩年、今の実家を最期の場所として建てた後、二年ぐらいかけて身辺整理して帰って来ました。20年振りくらいの同居は、それはそれは皆が喧嘩でした。いきなり帰って来て罰がわるいのか知らないけれど総て上から目線。家を買ったのは俺だから文句あるか、みたいな態度。本当に困りました。でも、身体を壊してリタイアするまでは、接待にいったあと、深夜にタクシーで帰って来て、私を叩き起こしました。

 

実際には家族を起こそうとしたのですが、起きるのは私だけ。ときどき、財布を落とすおバカな父だったので、なけなしのアルバイト代で県境をまたぐタクシー代を何度も建て替えた事があります。そうしてその後、寝床を用意してあげ、水を飲ませ、くだをまく父の相手をはいはい、とするのでした。私は君のかあちゃんか!と思いました。(父方の祖母は父が4歳の時に亡くなっています。)そうして、その時、仕事のあり方、取り組み方、も、おそらく井上さんが同行していたら言ったであろう事を聞きました。その時間は、私を一人前の人間として相手をしてくれているようで(実際は一方通行だったのでしょうが)あの時間、あれらのセリフは私の中の奥底にしまってあります。まあ、私が大人になって似た歳になって、「やっぱりちょっと違うんじゃない?浅いな~・・・あれを深いと当時思っていたのか~・・」とか思いますけどね(苦笑)

 

で、子ども達がまだ幼すぎたので、危篤が長く続いて子ども達を一旦帰らせる間に(私は直感していましたが)、父は逝きました。そうして後から親族に聞きました。

 

『あいつは、すごい頑張り屋さんや』と。

 

井上さんと私、父の生きている間には聴けなかった台詞です。だから生きているうちに、とも思いますが、生きているうちに聴けなかった事が後から解ることもあるので、その人の命は肉体が医学的に亡くなってもしばらく、続いているんじゃないかなあ、と思ったりすることがあります。

 

そうして井上さんはもうお逢いしていないので、解りませんが、私は相変わらず、あれから誰にも褒めていただいたことはありません。頑張り屋さんや、というより、すっごい真面目な人や、と常任指揮者が独唱の先生に紹介してくださる時に伝えてくださったらしいですけれど。。。

 

さて、ちょっくら病院行って来ます。。。