特定不能の広汎性発達障害を基盤とする季節性の鬱病や過敏性腸炎などなど精神疾患的にはいろいろ絡まってます。

 

 

内科的にはアスピリンアレルギーがあって痛み止めや解熱に気を使わなければなりません。

また喘息があるので、麻酔や造影剤にも留意が必要です。

 

 

こんな身体に生まれたかった訳じゃない。

 

 

母はとっても健常で、年寄り特有のそれはありましたが、大病もなく、これまで手術も経験ありません。

母方の祖父が徴兵された時、甲種ということだったらしいです。聞いたとき、それなあに?と思っていましたが、母は単にとっても誉れな事だ、と優越感に関してのみ説明がされました。

後に社会の教科書で詳しく知りました。

 

 

おじいちゃんはもちろん身体が丈夫で、90歳ちかくまで活動していて、だからこそ認知症が見えた時、母方の叔父が同居していたのですが、神経を遣っていたようです。何でもできちゃうので、よかれと思って御風呂の用意や御飯の用意をしてしまうと、火の元に関して忘れてしまうので、火事になってしまうからです。

 

 

サイクリングのつもりが家にどう帰ったらいいか解らず、一晩のうちに、大阪の泉州から、兵庫の伊丹の土手に行ってしまいました。新聞配達の人がつかうあの頑強で重たい自転車で、です。警察が保護しようとしたら、保護の意味が解らなかったのか、『俺は何も悪い事をしていなから警察につかまる筋合いは無い』と言ったのだとか。

 

 

なんだかその祖父に母が似て来ました。もちろん女性なので、スケールは祖父より小さい・・・と思いたいです。でも今でもすいすい自転車に乗ってしまうし、勝ち気。好戦的。だから、勘違いでカチンと来た場合は、相手の事情や、心や、生育環境などなどに、配慮が出来ず、思った事言いたい事を、矢継ぎ早に叫び、もう息つく暇もなく、ずっとパニック状態(パニック発作ではありません)になって、赤子が癇癪を起したようにずっとそうなります。

 

 

これはもう私が物ごころついた時からです。父の事も、父方の親戚の事も、気に入らないと、つまり自分がいつも正しくて、一番頭が良くて、育ちが良いと思い込んでいるので、もう糾弾の嵐。

子どもごころに、耳にするにはとても苦しい語彙が飛んでいました。人権なんてあったもんじゃありません。

そうして『私の国語力はピカイチだ!』と豪語するのです。『昔学校でピアノを弾けたのは私ひとりだった』と中学生の頃の話をいつもしていました。で、エリーゼのためにの冒頭部分をちょこっと、おおらかに、というか、(それってスムーズに弾けてるの?)という程度に弾いたくらいで、他の曲は聴いた事がありません。幻想即興曲なんて、皆無。

 

 

このように、親以外のきょうだいや、配偶者や姻族や子どもや、近所、知り合い、世間に対して、とっても好戦的でした。誰も何も挑んでないってば・・・って思ってもそうでした。

 

 

だから世間のステレオタイプになっていかない私にとても過干渉で管理していました。こころがずっと幽閉されていました。違う意見を言おうものなら、『頭が狂ってる』『そんな価値観この世にあるわけがない』『親の言う事(つまり自分のいうこと)は絶対だ』などなど言いつつ、実は周りからどう見られているかビクビクしている人でした。そのビクビクが大きい分、家族に総当たりするのです。赤子のように。癇癪を起こすのです。

 

 

これが私が母とうまくいかない、と思っている理由です。もう歳をとってきて『誰とも仲良くしたい』というのですが、小手先で何かこっちが求めているものとか関係なく、いきなり送って来て、有難がれ、てな体裁で、これまたえらそうに上から関わって来ます。全く直っていない。誰の言う事も聞かない。自分の粗相の事は全く言わず、『こんな事された』とだけ周囲には言うので、それをそのまま取ったこころやさしい人は、母を不憫におもって、母にやさしくするのです。

 

 

リコーダーはいつも御車つき。本来子どもがするべきもの、とか、愚痴りながら、御礼をいっているようです。そんな愚痴をいう仲間がいっぱいいるようで、父が遺した不動産に住み、父がかけていた年金で暮らし、ランチを豪遊しているのです。隣の芝生を本当に欲しがるのです。

例えば子ども達、私と弟が、彼女が欲しがる水準のかんらかを用意出来なかったら癇癪を起こして、親不孝者、他の人みんなもっと子どもにしてもらってる。というのです。

 

 

バブルの時期、30代40代の人は恩恵を受けたと思います。あと金融関係に近い人は潤ったと思います。でも、公務員やエンジニアはそうではないんです。私なんだかんだで手取り13万で徹夜でサービス産業して、POMジュー○さんとか、ME○JIさんとか、ハウス○品さんとかのシステム構築してさ、月に100時間くらい残業しても、手取り30万あったかどうか。賞与もさほどなかった。基本給が13-15万だったからね。某電機メーカですよ?家に帰って疲れてただ寝るだけ。お洒落したくとももうそんな元気も時間も何も無い。システム稼働に間に合わすために本当に、冬なんて太陽が上がっている時間に家に居たことないです。

 

 

でも金融関係の同級生は、初任給もケタ違いでした。初めての賞与なのに、100万でした。うろやん???ホンマに???って思いました。でも、金融機関を顧客に持つシステム部の同期は、私以上に残業があって、もうバタバタ倒れてた。御金でシステム部員をこきつかっていたんですよね。違うんです。健康の為に残業をほどほどにしないといけないんです。お盆も正月もシステムクラッシュに備えて、プライベートのスケジュールも管理されていました。

なのに母は、金融機関系の出身ですから『なんでお盆も正月もないの!?』を呆けていました。稼働している間にシステム停めてええんですか!?へ~・・・そんな事してATM日中に全部動かなくてもええんですか・・・もうほんとそんな人でした。(父もズブの文系だったので、この理解はありませんでしたが母は酷かったです。耳を全く傾けようとしなかったから。)

 

 

そうして、その、彼女の特異な言動が、昨夜炸裂しました。子ども達は今年急性期であったので、もう救急や休日の診療に奔走していて、もう合唱の体力づくりも全部できなかったけれど、去年の体力増強の貯蓄でどうにか乗り越えて来たと思います。息子に至っては、ただ息が出来る幸せに浸っています。喘息の人なら解ると思います。当たり前ですが息が出来ないと死んじゃいますから。

 

 

そんな時でも母は競うんです。『私の方が年寄りだからもっと大変だ。』と。その歳まで生きたということは、大病しなかったし、元々が頑強。おじいちゃんやおばあちゃんに感謝すればいいだけのこと。それに私も孫達も、このような身体になってしまったことは誰のせいでもない、と思っていますよ。本当にそれとこれとは話が別、という概念というか観点が無いのです。味噌も糞も一緒なんです。(スイマセン・・・でも本当なので)

 

 

両親の中は早々に悪くなりました。けれど、当時の価値観としてももっと今より離別に対して世間の風当たりが強かったと思います。でも、実際に言われたのは、私と弟がもう生まれてしまっているから出来ない、子どもがいなければ、でした。

 

 

以来、二人で、ずっと自己の存在を認められない人生です。かなり幼い頃だけど私が中学生、弟が小学生の頃に聞いてしまいました。あれからアイデンティティが培えません。

 

 

で、昨夜は、私のPTSD具合があまりに酷いので、母からの連絡を冷静に確認して、意見をしました。今同居していて、自分も姉もあまり身体が丈夫でない。御母さんには悪いけど、僕たちがもうちょっと成長したり、回復するまで、御願しないといけない。だからこそ精神的にかなりのダメージを受ける事を無自覚無意識に言いたいからというだけの理由で伝達しないでくれ。僕は実際に面倒をみてくれて、しんどい時こそ助けあう家族を傷つける人は、たとえおばあちゃんでも、親戚でも、誰でも許さない。それでもおばあちゃんに何かあったら、帰る事を考えないといけないから、今は治療に専念させて欲しいねん。

 

 

と、息子が言うやいなや、『これまで一回も帰って来て欲しいなどど思った事は無いわ!!』『勝手に出て行ったくせに!!』といってききませんでした。

 

 

実家に身を寄せた時、当時DV法がなかったんです。なのに母は元配偶者からの電話が嫌で、『私はかかわりたくないから、直接娘のところに連絡して』と身を隠したのに、連絡先をバラしてしまうような人なんです。家族の盾には全くならない人。

 

 

そんな実家と関わっていられます???自分の事以外、全く無関心。真の自閉は実母だと思いますが、信じないでしょうね。教授のいうことも、担当医のいうことも、コピーのように口伝えしているのに、途中で曲げて伝えていると言ってきかない。じゃあ、直接お逢いして、お話したらどう?というと、忙しい、といって拒絶する。

 

 

もうお手上げなんです。だけれども、世界中で一番私が優秀で、誰より正しくて、立派、といって憚らない・・・昔から。美貌も親戚ピカイチだったんです、って。本家に嫁ぐ予定だったけれど、終戦で土地を国に取られて縁談の話もなくなって、仕方ないから父にしたんだ、って。

自分がさそった姉さん女房なのにね。当時にしてはかなり大胆な女性だったと思いますよ。

父は生み出した経済を総て母に吸い取られて亡くなりました。

 

 

なので私にとって母の存在自体が申し訳ないですが、もうとっても心の傷なんです。肉体的に育ててもらった・・・のだと思いますが、もう小学生の頃にはたったひとりで、熱がでようと、大けがをしようと、私ひとりで、病院にいっていました。19歳のころにこころが苦しいと、これまでと同じように保険証を貸して欲しい、というと、それは却下されました。もう色々神経的に参って、ボロボロだったことに、もう耐えられない、と、またひとりで病院にいくから、保険証かして、と言ったんだけど、ダメでした。未成年の私は、それ以来我慢していました。

でも家で症状が出ると、『キチガイ』(今書いちゃダメですよね)と平気でののしりました。

 

 

だからもう息子が昨夜、『おねがいやから、もう我慢しないで、治療して。もう病院に行かさない人いないから。たくさんついたすっごいこころの傷、それだけ身体の症状に出てるの、もう、僕は見過ごされへん。な?もう行こう?ちょっとずつ僕は回復してきたから、今度は御母さんの番やで?恥ずかしいけれど、御母さんしか親しないし、成長がゆっくりで病弱いやから、申し訳ないけど、まだ御母さんには生きていて欲しいねん・・・』と、諭すように私に言いました。(実母はこのアプローチで諭すように進言しても、自分が上なので、目下格下の孫が何かを自分に発する行為自体がもう許せないみたいなんです。絶対君主のような母です。)

 

 

なので、さきほど、いつもの受付に、相談して、かかりかたを教えて頂いて、予約を改めて取りました。担当医ではないですが、別の専門医に、相談できるよう橋渡しをしていただきます。

40年ちかく放置してきた自分の深い深いこころの傷を診てもらいにいくことになりました。

 

 

また向き合わねばなりません。。。

 

 

だからね、私、壊れてるんですよ、いろいろ。まさか実の母が毒親だったとは(うすうす気づいてはいたけれどね・・・)

 

 

私は、事実しか書きません・・・信じてもらえなくても、本当にある話です。

 

 

ではでは、家の事をします。。。