焦っているのか、はたまたショックな出来事ばかりでメンタルが参っているのか、今日は身体を自分の思うように使えませんでした・・・orz
やっと声楽的な『筒』の状態になる身体の各パーツの使い方を掴みかけられたから、それを忘れたくなくて、そうすると怖いんだと思うんです。あれは偶然だったのか?ってなるのがね。
だからこそ何度も身体に叩きこむんですけど・・・だから行くんですけど・・・
今日は本当に人の集まりが悪かったし、覇気が無いというか、最終曲まで一通り終わっていないといけないスケジュールをこなすだけになっていた現実が嫌だったのか・・・まあとにかく納得のいく声が出たのは、パート練習冒頭の発声のつもりで旋律を歌う時、というか・・・
なんかね、イライラするんですよ、出来ない事が
え。イライラ
・・・たぶん、イライラだと思います・・・ 違うかな・・・
もどかしい
くやしい
あれ、なんだろう・・・
67番と言えば、ソロがバスから始まり、テノール、アルト、ソプラノ、と廻され、その間に合唱が入ります。亡くなってしまったイエスに御別れをいうシーンです。
魂が乗って来ない、というか(皆の声のね。)、スコアを追いかけているだけで本当にいいのって思って。そこで留まっている状態がなんだか悲しくて。
簡単なドイツ語です。でも音楽的には深いです。宗教的にも深い。ということは哲学的にも道徳観としても深い部分です。
マエストロが説明した『この”おやすみなさい”は、その日の夜にいう挨拶ではありません。永遠の御別れを意味する”おやすみなさい”です。』に衝撃を受けたんだと思います。
当たり前ですが、ひとつひとつの音符、休符、アーティキュレーション、指示、どれひとつとしてバッハの音楽として意味の無いモノはありません。楽譜としてはこう描くしかなかっただけで、ここまでしか描けなかっただけで、その間を音楽的な理解と技術が埋めるのだとすると、
まったくもってして、今日の練習は、『叱られないために、はい、やりました』みたいな、ただそれだけな気がして、なんとも無機質で、
・・・悲しかったのだと思います。
いのちにたいして、無機質な、ルーティンワークのような、そんな取り組み方あるかな、って思ってしまったのだと思います。
だからこそ、その理解の方向へ身体を動かすことが出来なかった自分を責めているというよりも、恥じているのだと思います。技術不足も甚だしいなんて、情けないんだ、自分
・・・みたいな。
もっとも、殆どの団員さんが、そんな風に思い詰めてないと思います。高齢者が多いですが、今日も当たり前に朝が来て、今日も当たり前に生きていて、今日も当たり前に合唱に来て・・・
いや、いいんですよ、それで。いちいち、大げさに感謝を『ははーっ』ってひれ伏して何かを偶像崇拝する必要もありません。
ただなんだか、そう、ただなんだか、マエストロの解説は簡単だったけど、『深いな~・・・』って思って、もしかしたら荷が重たいのでしょうか・・・いや、違います。やっぱり対岸の火事みたいな人が多い事が悲しいのだと思います。
もちろん熱くなれば衝突もあるでしょうけれど、本当にもっと歌うための環境づくりを、身体も精神も出来ないものだろうか、って悩んでしまったのだと思います・・・
割り切りが下手な私は、特に、いろいろ感じてしまって、それを見事に取り込んでしまって、未消化(昇華)のまま、兎に角そんな中を先陣切って挑まなければならない事だらけなので(表層的に速い現実に思考も身体もついていけなくて・・・)、
それで、しんどいんだと思います。。。
あ~、もっと、器用に生きられたらなあ~。。。昔から出来ないからこんな人間なんだけどね。。。
なんだかなあ。。。