バロックヴァイオリニスト”エンリコ・オノフリ”リサイタル | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

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11月3日、京都アルティに行って来ました。チャレンジとはこの事です。知らない沢山の人に紛れて座席が決められている状態で長時間共有空間にいられるか、障害や病気の特性から大変なチャレンジでした。

 

それでも、決めたのは共演者でありお弟子さんの杉田せつ子さんのフライヤーへのコメント。
10年前のフィレンツェで初めて聴いた時、そのあまりに豊かに倍音をまとった音色に、そして輝かしくも温かな音色に驚愕いたしました。(中略)ギリシャ時代からの「」音楽は魂に直接届く薬のようでなければならない」との教えどおり、真の音楽にふれたなら、心はいつしか時を超えて、今生きていることを只々幸せに思える様な、そんな格別な時間となるでしょう。

に影響を受けたからです。倍音の豊かさが実際に乗ったヴァイオリンの生音とは一体どんなものか、そうして、コメントにあったギリシャ時代からの「音楽は魂に直接届く薬のようでなければならない」との教えに正直私はすがりたかった。

 

まだまだ毎年不安定な娘。とりわけ今年は不安定で、5月ごろから自傷が止まらない。最近に至っては頻度が増している状態。ちょっと目を離すとやってしまうようで、それでいて、見える範囲を隠れ蓑?とにかく軽い傷にしておいて、服で見えない処に脂肪層がみえるくらいの傷を作ってしまうのです。一体、吾子のそれを冷静で受け留められる母親がどこにいるでしょう?少なくとも私はもう、感情というものでは言い表せられないなんともいえない虚無のような空虚のようなそんな感覚で、労わってつきそって医療機関の皆さまの通訳をし、説明し、職場への理解を求め、弟にも理解や辛抱をしてもらい、限界はとうに過ぎていました。

 

そんなわたしに「魂に直接届く薬」などあるのだろうか・・・・そんな想いもありました。

 

20161103144804.jpg(チェンバロの調律の様子)

 

リサイタルはチェンバロとお弟子さんの杉田さんのバロックヴァイオリンとの曲や、独奏もありました。

 

フライヤーコメントのうち「魂に直接届く薬」にだけ思考がフューチャーしてしまっていたので、倍音の豊かさについて書かれていた事をすっかり忘れて実際の音を聴いていました。だから「なに?この豊かさ!!」になりました。中にはクラシックなので寝てしまった人、知識をコソコソ話している人(曲間)もいましたが、私はもうオノフリさんの指使いや弦の震動に目が釘付け!!!お弟子さんである杉田さんも大変豊かな音を出されますが、もう全く違う豊かさ!!!どうしてもオノフリさんの音に耳がいってしまって、ともすればチェンバロの音ごめんなさい、杉田さんごめんなさい、って思ってしまいました。特に低音の素晴らしさ。フライヤーを見直して、「あれが豊かな倍音というものなんだ!!!!」って思いました。

 

忍者のように、あるいはクローンのように、オノフリさんがいっぱいいらして、一糸乱れず一つの音を同じ様に紡ぎだしているかのような、「え?オノフリさんってひとりしかいないよね???」のような・・・何度、どれだけ長く観ても、ただただ豊かな音だけが聴こえてきました。

 

20161103144553.jpg(虎屋のおとなりにあるアルティの大きな錦鯉がたくさんいる池がある日本庭園)

 

それは第二部のJ.S.バッハ:無伴奏パルティータ第二番 ニ短調 BMV1004より”シャコンヌ”の時の事でした。その倍音の豊かさに例のバッハならではの旋律を聴いているうちに、ふ、と、瞑想状態に入ったように思います。オノフリさんの音を聴きながら、「私はこれからひとりの人間としてどう人生を歩いていきたいのか」と潜在意識と対話しはじめたように思います。『そうか!これがオノフリさんの私にとっての直接魂に届く薬の正体なんだ!!!』って気付きました。

 

薬というから、てっきり、心身の痛みや苦しみの「緩和」だと思い込んでいたのです。愚かでした。事実、今回のプログラムにあたり、オノフリさんは以下の様にパンフレットで御話されています。

 

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(前略)

私の仲間である杉田、ドーニ(チェンバロ)と共に皆様のために用意した本講演のプログラムは、「憂鬱=メランコリー」についての古くからの考えに影響を受け考案したものです。

 今日では、「メランコリー」とは単に「悲しいこと」を表しますが、ルネサンスやバロック耳朶における本来の意味は、もっと複雑なものでした。

 当時におけるメランコリアを備えた人間の特徴とは、「瞑想状態もしくは黙想状態のような”静”の状態から、瞬時にして心身を闊達な情動状態に変化することが出来る」というものでした。それはたとえ心や身体が悲観的な状態にあり、内面は苦悩し明らかに心の沈んでいるような、そんな時でさえもです。

 これこそが、音楽や絵画、科学に対する深い創造性を生み出すアーティストの心の典型的なありさまであると考えられていました。

 ですからメランコリアの精神を備えた人間は、火山に例える事ができるでしょう。一見穏やかで安定しているように見えても、内面はマグあに満たされているのです。噴出するアイディアや一時の炎のような気質を以て、新たな芸術の大地を創造する準備があり、そして創造のあとには瞬時にして再び静けさへと戻っていく準備があるのです。

(後略)

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リサイタル前に席について読んだこの一文でハッ!としました。先ずは、感情、と書かず、情動と書かれるにあたり、相当学術的に研鑽された方だと御見受けしました。

そうして、やはりいにしえのメランコリアの説明を解る形で解説していただけた、その感覚というか価値観と言うかセンスというか、そのようなものに、人間性を見せてくださったような、音楽に対する向き合い方を惜しげもなく言葉で披露してくださったような、そのような感銘を受けました。

 

そう、私は博士号に拘りました。PhD、つまりフィロソフィカルドクターの今でも表記するのは、この哲学的な意味を自身の専門に活かす、あるいは包含しているアーティストの事を指すからです。

表層的な感情、よく言われる喜怒哀楽、ではなく、静、つまり自分の事でさえ、客観俯瞰出来る能力、鎮かで深い智慧にも似たあまたの知識があるにも関わらす、真摯で謙虚で、静寂を好んで、どんな感情であれ、どんなに複雑であれ、それらを総て網羅し包含できている哲学者でもある人間になれるよう、放置しておくと愚かな私であるからこそ、研鑽をつみたかったのです。

 

その回答が、古楽を通じてですが、オノフリさんの独奏の、その豊かな音から、教えて頂いた、あるいは啓示を音で通訳していただたように深層に真直ぐ瞬時に入って来ました。

 

誰もそうしていないのに、私だけが、声はだしてはいませんが、号泣していたのはそのせいです。

 

私にとっての、真の、直接魂に届く薬を、オノフリさんは確かに処方してくださいました。

 

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帰りは、京都御苑(御所)を少し散策して帰りました。

 

わたしにとっての御薬は、魂の導だったのだと、生まれて初めて気付きました。

 

ありがとうございます。エンリコ・オノフリさん。