いつもく~ちゃんの言葉でおはよう、します。
く~ちゃんは愛でいっぱいです。
ちいさいおともだちのせんせいをしています。
ほんとうに愛でいっぱいのひとです。
ところが今日はなんだか寝るタイミングを失ってしまい(←変ですか?)、
夜が明けて、小鳥さんが啼き出して、(もしかして、もう寝ていいのかな?)(もしかして、今が寝るタイミングなのかな?)ていうモードになるんです(←やっぱり変かな?)
で、それでもって寝て無いもんですから、なんだか目がシパシパして、
ネットサーフィンしたり、調べ物したり、ピグで遊んだりして、もしかしたら寝るタイミングを逃したかったというか、なんだか寝るのが怖いというか、今日のほんの小さなイベントが怖いとか、たぶん深層ではいろいろあるんだけど、とにかく眠れなくて、
しっかりドライアイが復活しまして老眼が急に進んだ!?って驚くくらい見えにくくて、
が、一瞬、同じに見えちゃったんですね。
そう、「愛がいっぱい」のはずが「憂がいっぱい」に一瞬。もちろん、すぐに「んもぉ~、さすが心配症の私、愛を憂に見ちゃうなんて・・・」からの、「やっぱり寝なきゃダメだな、こりゃ☆」になるんですけれど、
それでも「憂」って本当に私は理解しているんだろうか???といういつもの癖が出まして、Weblioで調べてしまいました。類義語や同義語が調べられるネットの辞書です。
憂う、には、これだけありました。でもね、ピンクの部分は、最初に、自分に該当する事を囲ってみたんですね。で、次に水色。親として私が子どもを育てている中でいつも感じている事を囲いました。
そうすると、私は、少なくともこれまで、『憂』には、意義素の三つ目『悪い自体を予期して不安になる』を単に一様に価値付けしていた事に気付きました。
他にも『物事に対する考えによって、心に苦痛や違和感を感じること』があります。ここで違和感をほぼ苦痛と同じと見ない場合、苦痛ではない何かになるんだけど、その何かに愛の意義素や類義素が含まれてやいないのかだろうか???と激しく疑問になってきました。
むしろ「もしかしてかなりの確率で部分的に意義素や類義素が入ってるはず」に近い感覚でした。
もっと簡単に平たくいうと、『子どものことで、憂うのって、本当に愛の無い事?切り離せる事?いや、そうじゃないと思う!子どものことを思って憂うことに自信と誇りを持とう!』って。
文字の見え方が、『憂』であったとしても、一目で邪見にするんじゃなくて、リジェクトするんじゃなくて、『こんな事を思ったり感じる自分っておかしいんだ、宜しく無いんだ』じゃなくてもいいのかも?って思った、というだけの事です、はいだただたそれだけ。
く~ちゃんの愛は本当にいっぱい。だけど、く~ちゃんの愛が私の基準になって、私の中の層で無い部分が、自分を責める一因になっていた事には今日まで気付かなかったというか意識がいかなかったというか・・・やっぱり「気付かなかった」「発見できなかった」ですね
く~ちゃんがいうところの、ほんとの愛が解ったらいいな~ って思いました。
ひとことメッセージだけど、深くまで考えられていなかったのは、捉えられていなかったのは、私のほうで、これまで単純に思考してあたかも理解した気になっていたのかもしれないな~、って
もっとうんと五感を、六感を使って、愛を受容体でキャッチしたいな~、って思いました
く~ちゃん、いつもありがとう