”小林麻耶さんのブログで過去の私を思いだす” | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~


ホントそう思います。こうかくと不謹慎かもしれませんが、

 

娘が小学校でイジメに遭った時、担任にも教頭先生にも校長先生にも、ひとり親なので孤軍奮闘状態でした。弟である息子にも気を遣い、研究室にも気を遣い、皆が気を遣って下さる事に気を遣って生きて来ました。

 

私なんぞの言葉は通じない。そう直感して母校の京都大学医学部附属病院の専門医師を急遽頼りました。診断していただくと直ぐ学校も自治体も対応が始まりました。お墨付き、になったのでしょうが、その掌を返すような180度違う即時対応は、殊更私を傷つけ、社会での無力感にさいなまれ、孤独感を強くして行きました。そうして、

 

『社会や自治体の仕組みを熟知し、私が各方面に頭を下げる起爆剤(起点)となって、子ども達を包括的にしかも即時的にしかも子どもの心に寄り添った形で助けるんだ!!!』という覚悟を益々強くしていきました。

 

かつて無理解無知、普通では無い、という事を糾弾し、そのせいで、父の実家の形態や、母子家庭や貧困層、学歴の無い人達を嫌悪していた実母や、周りの人には心の牙を剥きだすようになっていました。

 

見えない競争社会。

 

雇用機会均等、とか、男女機会平等とか、表面的な制度を整えたって、それまでに差別を受けていた人の心のケアがされていない限り、折角の機会を身内や親友や関係者が潜在的な嫉妬によって壊す事なんぞ当たり前にあり、それに気付かないという、愚かな現象。

 

誰も、誰も、誰も、気付かない。

 

適用障害だって、雅子さまがなられて(雇用機会均等法が成立した当時の女性だったと思います。)、愛子さまがとなりのクラスの男児の言動に不安を覚えて登校出来なくなった、という報道がなされて、そうなると揶揄はないですが、どうしようもできずに、成り行きを拝見するしか無い、普通と言う名の、普通では無い事に対する無理解無知を自分に容認する他人に厳しい人種がマジョリティ過ぎて、もう辟易していました。

 

私がいくら、博士課程に合格しても、誰も信じてくれないんですよ。ひと回り以上年下のストレートで学業をしてきた男子と机を並べて受験した、って、信じてくれないんですよ。もちろん周りの同級生や仲間たちは実体験なので解っています。各大学の教授・准教授、研究所のセンター長や室長に、年下の先輩がうようよいます。けれど、身内が全く信じないのです。

 

海外出張となると、もちろん見学ツアーがありますが、そんなもん慣れた人が楽しめるのであって、初めての国際会議の学生だとか、引率の先輩は楽しむ余裕なんてありません。機内で何台も持ってきたバッテリーを接続してフライトの時間を利用して仕事をしている。ホテルに籠って発表練習をする。発表議題に関する最新情報は、パブリッシュ(論文集)ではなく、当日の発表のスライドの中にあります。

 

ということは、発表直前まで発表資料を修正しまくっているのです。てにをはが違うとか、別の適切な単語が無いか、とか、作図ももっと解り易いものはないだろうか、と。もちろん聴講にいらっしゃる同じ研究の方向性の方がたは、論文集をなんとなく予習してから来られますが、そいういう慣例を御存知なので、サラッと概要を掴まれて、発表本番を聴いて照らし合わせて、それで、整合性の先を見越して、理解します。それで質問があれば、されますし、当然そこまで論文集のカメラレディに書いた事と、発表の資料と、発表内容の文言の整合性がとれていないと、理解されないばかりか、全く意図しない方向で誤解されるので、とても緻密に知識の整合性をとりながら、ブラッシュアップしていき続けるのです。直前まで。

 

そんな状態でも、家の事が気になる。子ども達の心が気になる。

 

でも預けた母は、社内の慰安旅行と勘違いしている。5日にも及ぶ大きな海外のカンファレンスは、研究の細分化されたジャンルごとに、これまた更に細分化され、方向性に則って、セッションが割り振られ、その中での上に書いた緻密な事をしていても、それでも研究としては本当に『出来損ない。初めての発表だけど、京都大学で、あれじゃあねえ。○○先生の処であれでは・・・この子が相当出来ないか、教える腕が無いかだなあ・・・』とも取られる。そうなると対外的な先生の面子がまる潰れ、しいては大学のレベルに対して信用がなくなるので、本当に色々背負ってるんですよ。

 

まだ英語圏への渡航ならいいです。ポーランドはポーランド語。年配のかたほど英語は話せません。ロシア語に違いそれらは、私にはまったく解りません。生活レベルで欲しいモノをジェスチャーで伝える事はできても、連れて行っていただいたレストランでチップを払う慣習をまねるよりも、概念を伝える事は、もう不可能です。だから学会の発表枠の中で発表するのです。

 

質疑応答の時間の中では出来なくても、他の日に会場内をうろうろしていると、どこかの国のどなたか解らない先生が、『君の発表を昨日聴いたんだけど、あの部分って、どうなの?』とか『あれは、もうちょっとこうした方が僕はいいと思うんだけど』と話しかけてくれる事があります。そうすると拙いなんて言ってられなくて、先生方も独立させるようと躍起になっているので、英語が話せなくても、ポーランドの食事時間にその先生と一対一で食事するのです。それは絶対の機会なので、逃しては研究者としての資質の本当に大切な処が無いのと同じなので、胃が痛くなって食べられなかったら『お話があまりに興味深かったので食べるのを忘れてしまいました』とかって言います。

 

あ・・・こんな話になっちゃった・・・

 

今日やっと、『いくら家族だから、って、いくら親子だから、って、本人のもともともっている資質や、その成長の具合や、何を感じて、何を取り入れて、何に興味をもって、どんな周りになるか、どんな速さなのか、誰にも何にも解りやしないので、調停しながら、それぞれが基本パラレルである事が、心理的パーソナルスペースとしても好ましい。だからこそ、言語があって、状況依存で話をカスタマイズすると、コミュニケーションが取れるんだ。』という事に、娘が気付きはじめて、実行動を取れだしそうです。。。

 

精神病院に連れて行かれる事があっても、当人が発症しているだけで、家族が機能不全になっている事なんぞ、職場の環境が悪い事なんぞ、ちょっと診察の待合の人間模様を観察すれば解ります。

 

それをいつまでも(そりゃ中には本当に本人の神経が病的に異常の場合もあるが)、本人が奇異のように扱うから、病状が改善しないんだよ。

 

そんな親しか、親族しか、先輩しかいないんだったら、いっそのこと、本人が本人に合う可能性の高い、コミュニティに自分のタイミングで距離を縮められる環境を提供してあげるべきで、その際に引いた方がいい場合は、親しか、親族しか、先輩から離れてあげてほしい。

 

・・・というのにも気づかないんだろうな・・・

 

ホント、昔三歳児神話、ってあったけど、家族神話ももう崩壊していると思うけどな・・・会社神話とかね。

 

ホント、もう時代や現状に合っていない、戸籍や法律で、人の言動や思考や概念やアイデンティティを縛るの、止めて欲しい!!!!