昨日のマタイ受難曲。
お盆が終わったせいかかなりの人が集まって、パート練習場は満員でした。
診察の際に、主治医に労わって貰ってしまって、長年の緊張の糸がどこかほころんで来たのか、
なんだか『感覚』のようなものが自分から離れてしまって、
おそらく説明には乖離のような離人のような、そんな状態なんだと思うんだけど、
とにかくなんだか感覚器が誤動作してばっかり。
正規全体練習日はスタートが18時です。
お盆に体調が悪くなって休んでしまった事を、こころのどこかで責めていて(かつて親からとか指導教官からとかから「役立たず=意のままにならず期待に応えられないヤツ」という高圧的強迫的レッテルを貼られたこころの傷が癒えて無いのです)、
なんだか自分を責め過ぎるようで、それで倒れてしまっていました。
私本人は、ギリギリ間に合った!と感じて起き出して、息子の用件をして、さあ家をでよう!と思った時に、もう一度時計を確認。
『18:08』
・・・・・・。
・・・?
????
私の中で、17:00と18:00が畳まれていたんです!!!
カットされていた、と申しましょうか。
まるでタイムマシンに乗ったような、意識が飛んだような、瞬間移動したような、そんな感覚でした。
『へ? ・・・遅れてる???』
この二年ほど、合唱団の全体の覇気というか、そのようなものが喪われつつあるらしく、再来年の定期演奏会の案が、常任音楽監督(普段マエストロと私が呼ぶ人)から、白紙だと言われて、
大変不本意だけれど、出席を取る、という管理のような切っ掛けを作らざるを得ない、という事になってしまいました。
私は本当にクラシックの初心者なので、マタイ受難曲、と聞いても、他の無名の曲となんら、変わらないのですが、普通にファンの人からすると、大曲らしく、入団志望者がやっぱり増えたのです。(私はそのような発動起点で動かないので・・・理解できませんが)
で、遅れていっちゃったので、最後尾。それはまったく構わないのです。それで椅子をだして座ろうとするよりも立って歌いたいので(先日、小玉晃先生にやっと声楽的椅子の据わり方を教えて頂いたところです)、それも良かったのです。
でも何だか全体と合わそうとしても、ピッチが下なんですね。小玉先生がよく注意なさる声帯の下側から声を上に出そうとしている、下からもってくる発声の声のように感じました。
全体が、です。
ビックリしました。これだけの人数(ソプラノは50人くらいでしょうか)がいて、ひとりふたり、いるかいないか、なんです。ピッチが上で、全体からすると飛び出して聴こえるのは。
こんな時どうします????
合唱だから皆に合わせてピッチが下の声になじませます????
私は出来ません。なぜなら正しくない発声だから、いつか喉をやられます。歌えなくなります。大曲なのに、最後までもちません。最初の一曲でダウンです。ソプラノなのに、すでにFから上が上がりきらないという訳の解らない状態になりつつあります。
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私は影響を受けやすいので・・・というステレオタイプを捨てました。かつての私です。
自閉と言われようと、ひとりだけええかっこしい、と言われようと、正しい事をしたいのです。(今回なら声楽的に。なぜならそのうちに変な癖が身体に就いて、声がでなくなるから。)
結果、それに力んでしまって、マエストロの好きなどちらかというと太い声を無理に出そうとしてしまって、やっぱり喉を横に広げた発声をしてしまいました。
途中ですっごい咳こんでしまったのです。練習の最後10分くらいでやっと声が出だして豊かになってきたのに、とても馬鹿な事をしたと思いました。
(合唱団の年齢があがってきたせいなのか、私が幼少の頃に音楽に親しんで居た事が目覚めてしまったせいなのか、私が思っているより身体の使い方が思考とリンクしていない人が多すぎるのか、所属年数だけが長いだけなのか、とにかく入団して9カ月ほど経ったくらいで、団全体の質が入団前よりは高くない=目指して実現する力が無い、と感じて来てしまいました。)
その事実に驚愕したんだと思います。150人からする団ですから全体がそうだと単なるビックリ!の程度じゃ無く『驚愕』に相当すると思います。
流石にそれでは影響を受けざるをえません。
それで、あんな無理(=適切じゃない箇所で適切じゃない発声方法を強引に)してしまったのだと思います。
先日のHIGH-Eを出す時のコツを洋子先生に教えて頂いた技法を、たかだかそのオクターブしたのEからAの間の短いフレーズで100%近くやってしまいました。
そりゃ激しくその箇所が(声帯ではありません)『嫌だ!!!止めて!!!』って悲鳴をあげますよね。
とっても可哀相な事をしました・・・今じゃなかったんですよね。ホントごめんなさい。それはHIGH-Cから上を出す時に使う部分で、それより下で使うべきでは無かったのです・・・
でもやってしまいました。
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そういう意味では私の思考や私の身体は素直な反応をするのだと思います。
声楽的に素直に身体に入り、声楽をする身体づくりが今からでも出来る可能性があることを意味していると感じました。
こうして書いていてそうして昇華できたというか、転化できたというか、理解できました。
あ、ちなみに、私の『わかった!』『理解できた!』というのは、理屈が解り、それを体現する事が出来る状態にまでなっています、という時にのみ、使います。
ですので、内容(理屈)だけ解った場合は、『言っている内容は理解できた(でも、賛同できるかは別)』『意味は解った(でもそれをどうやって実現するかまでにはまだ至らない)』と表現する人です。
これ、『理屈っぽい』と表現する人がこれまで殆どでした。親さえそうでした。今の周りの殆どの人がそうです。
でもそれは適切的確じゃなく、『専門的で具体的な事をかみ砕いて、至極丁寧で緻密な表現』という事なんですね。
これ、専門家、例えば声楽家とか、専門医とか、研究者、などなど、物事を緻密に正確に捉えている人には言われないんです。
そうでない人、かつ、どこかで私を下に見ている、あるいは下にいるべきだと見ている人は、私を煙たいという感覚で捉えて、存在や思考をリジェクトするために、威嚇的に『理屈っぽい(=世間一般手はあまり受け容れられにくいと思われ居てる感覚)』に使うのです。
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子どもが自我を持ち始めた時に(第一次反抗期、第二次反抗期のどちらとも)、それを容認できない人や、頑強で恒常的な関係性しか築けない人がそうしがちです。私の両親も周りもそうです。
それに誘導するために『私は親なんだから』『あなたはお父さんなんだから』『お姉ちゃんでしょ』『もう歳が言って来たから』と使う事に、いつしか気付いてしまいました。意のままにしたいのです。
これは『支配』です。理解しないままに強引にもっていくのは支配です。ただ、ただですよ???
当方がいくら語彙を増やして、概念を増やして、理系でも文系でも芸術系でもあらゆる言語(オノマトペ=擬態語・擬音語、を含む)や記号やジェスチャーで表現しても、
唯我独尊的な思考の人や、それらを持たない人(文盲の人)や、コミュニケーションのセンサーがかなり鈍感な人、で、それらが恒常的で頑強な人、には、
どれだけ頑張ってもどれだけ時間を重ねても、どれだけ工夫をしても、どれだけ努力をしても、どれだけ進化(深化)しても、
全く届きません。
こちらがいつ諦めるか、だけです(苦笑)
おそらくこの状態の事を、養老先生は『バカの壁』と表現したのだと思います。
そりゃ、バーンアウトにもなるよね、こっちが。
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自分の子どもたちに対してだけでも、こういう感覚を持って居るのに、
世間の人へ徒労をしたところで、
結局うまい演出に騙されているとか、有名やブランドが好きとか、そんな目線しかない人には、
気付かれません。永遠に。
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それに、いつ、気付くかなのかな、って思いました。
なので、これは基本にもどって、『正しい発声で歌わないと声が出ない』というシンプルな考えに忠実な、合唱団で愛がいっぱいあるEちゃんの考えに共感して、行動した事があります。
もう、それを自分に許可しました。
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理解や共感がしあえる感覚集団に属する事に決めました。
文句ばっかり言って実現する努力をしない人と絡むのはもうしません!!!
( ̄^ ̄)
(なんの宣言やねん・・・www)