It is absolutely imperative for me to affirm my true potential and recognize a process of realizing.

 

そう、おそらく、私は、もし潜在能力があるのだとしたら、それを自己肯定してあげたかったし、

 

そのためには、私にあるであろう潜在能力を実現化する過程を知る(認識する)ことが必要だった。

 

・・・なんだか学校の対回答のようなブログだね(苦笑)

 

 

今日ね、あることから、悶々としていたそれらがちょこっとだけ、ほんの爪の先くらいは見え隠れしてきたのかもしれない、って思った。

 

 

私ね、『宛がわれる幸せ』って求めてないんだ、って気付いたよ。

 

 

同業者であった大阪大学のアプローチであるフィルタリングではなく、自らが主体的に知能を駆使して、求めるものを『手繰り寄せる幸せ』を手にしたかったんだ、って。

 

 

そのための能力を鍛えたかったんだよ。眠っていたのなら呼び起こしたかったし、もしないのなら、与えたかった。

 

 

☆いかに効果的な検索キーワードを自らの語彙空間から抽出して並び変えたら目的とするより近似回答に近づいていけるか☆

 

 

研究したかったんだと思う。

 

 

それは私にとって人さまとコミュニケーションするようなもの。見知らぬ人とどういうお話をしたら会話が弾んでいくのか。こころが通じたように思えるのか。発達心理学の平木典子さんが提唱したアサーティブネスにも通じる。

 

 

それに15年くらい前に気付いたんだ。

 

 

けれど、それを形にしていくマテリアルが見つからなかったし、見つける眼がまだ育っていなかった。

 

 

そう、自分が育つ必要があった。

 

 

アニメのワンピースみたいなもんだよね。『探し物を捜しに行くんだ』って感覚。

 

 

捜し物(探し物)を探す(捜す)のは難しのかもしれないけれど、でもそれは当時はできなかっただけで、もしかしたら必要条件が変われば十分条件だって、従属的に変わるかもしれないから、可能かもしれない。

 

 

それを実証したかった。生きる事を通じて。

 

 

私が人生で、あるいは研究でしたかった事。

 

 

認定退学して、子育てに集中して、自分の病気なんか放っておいて、自分の欲を後回しにして、

 

そうしてやっとやっと気付いた。明確になった。

 

 

入学する前はもっと漠然としていて、研究していてもどこか釈然としなくて、先輩がヘルプしてくださっても、それは先輩の概念の部分コピーだったから私じゃなかった気がして、

 

 

それは私の概念があるとすると不純物(ごめんなさい)が入っているような感覚で。

 

 

まるで、自分の声を探すかのような作業にどこかしら酷似していて。

 

 

本当はね、音楽を始めたのには、もっと別の本当に辛い辛い、今生では乗り越えられないであろう事があったからなんだ。。。

 

 

私ののたうちまわる形なんだ。研究もそう。異端扱いされて、疎外されて、『だったら唯一無二なんだからオリジナルなんだから独自研究じゃん!』って光明が射した気がした。

 

 

大学というどこかしら封建社会というか、文科省の管轄下、あるいはこの国の管轄下において、女性で子どもを育てている実年齢がそこそこ行っているオバサンが若い子に交じって研究するには厳しい環境だったのだと今なら解る。

 

 

それでも当時は、いや、おそらく今でも、飛び込んだと思う。より厳しい世界に飛びこむことで、私は私の潜在能力があるのだとしたら、鍛えたかった。自分を信じたかった。

 

 

そういう意味で、私は私の人生を生きる為に強くなりたかったのだと思う。

 

 

その端っこの端っこの爪の先のような事が、この体調の悪さの中で見えた。

 

 

身体は動かない。動けない。悲しい。悔しい。けれど、閃いたり、気付いたりは、力技じゃなくて、降りてくるようなものだから、むしろ、体調が悪い時の方が、力を入れられないから、

 

 

うまく受容できたのかもしれない・・・

 

 

もう、研究を続ける場所は私にはないけど。

 

 

最短年限内でないと、認められないんだ、学術界、って。

 

 

狭い世界だよね・・・無呼吸の短距離走そ延々と走る感じかのかもしれない・・・最短年限無呼吸。

 

 

それと人間的子育て、こころ育て、は、やっぱり矛盾している、いや乖離と言った方がいいくらい異質なもの。

 

 

両立は難しかったのかもしれない。でも私は後悔していない。

 

 

まず子どもありき、だったから。うん。

 

 

それで私が研究者として居場所がなくなっても、障害者になっても、異端あつかいされても、

 

 

子ども達をこの手で育てられた幸せには何物にもかえ難い。

 

 

そういう意味では、私は、『手繰り寄せる幸せ』=『探し(捜し)物を探す(捜す)幸せ』を既に手にしているのかもしれない。。。

 

 

それに気付いたら、気付けたら、今度は感謝がくるよね。

 

 

有難う、って、周りに言える。

 

 

気付き、受容、待機・・・これらの兆しをキャッチすることは、キャッチできることは、本当に有難い。

 

 

なんだかね、これらと通じている状態、って、浮遊というか遊泳というか、そんな感覚なんだ・・・

 

 

そういうとき、デジャヴのような事も、予知夢を見るような事も起こるよ。

 

 

こんな事いうからやっぱり私は変梃りんなんだよね、きっと。

 

 

でも、でもね、やっぱり・・・言いにくいんだけど、実現するんだ・・・だからちょっと(いや、随分)ヘタレな私はコワイんだけど。

 

 

対峙するしかないんだよね・・・自分の人生からは逃げられないんだもん・・・うん。

 

 

こうなるべくしてなっていくんだね・・・私は私の素養を前向きに諦めて受容するね。

 

 

仕方ないもんね・・・今生のお役割なんだろうな~・・・これが。・・・ってやっと、すっ、と入って来る状態になったみたいだよ、私自身がねぽってりフラワー

 

 

ほんと、時間がかかるな~・・・私はてへぺろアセアセ

 

 

いや、時間をかけなきゃ、目覚めない人なんだと思う。

 

 

逆説だよねゆめみる宝石流れ星キラキラ音符

 

 

こういう逆説、大好きうさぎクッキーくまクッキーラブラブ

 

 

また、変なブログでした照れおばけ へんてこりん、へんてこりぃ~んっくまアイス

 

 

(けっこう、へんてこりん、って、たのしかったりするよおすましペガサスふんわりウイング乙女のトキメキまじかるクラウン笑)