こころや考えの有り様やその変遷を出来る限り忠実に表現する語彙を私は人生で収集しています。
でもまだまだ穴ぼこだらけです。
だから私の語彙空間はこころや思考と同値のみならず同型でも同型写像も成立しません。
それに加えて相手によって変換するべき語彙空間(二次写像?)がいつもあります。
いくつもの翻訳を経て私は人とお話するので、酷く疲れます。
今日は診察だったので相手は医師、
そこそこ写像無しで(写像が無い事は皆無です)話せました。
それでもやっぱり辛いかな。
しんどいな~、相手にその理解が無いと(笑)
つまり私は先ず少しお話して相手の語彙空間が私にとっていくつ先か見極めてます。
その際に相手も同じ努力をしているか、も見ます。
一方だけが努力していてもいつしか関係やコミュニケーションは破綻するのを経験則と知識の両方から既知だからです。
メディアにもそういう目を向けています。
今速報にしてまで伝えるのに適している語彙を選んで伝えられる記者なのか、
また意味的に適しているタイムラクでも動画なのか、と。
誰に一体何の目的で何をどう伝えたいための報道マテリアル編成なのか、と。
それがあやふやな、ただ即時性だけに偏っているコンテンツをキー局手動の地上波の速報として価値があるとは思えないブロードキャストを許可した責任はどこなのか。
情報やコンテンツってさ、ただ漏れでいい訳無いじゃんよ



とか考えていたりする事が日常のよこしま☆ちゃんです、はい(笑)