Eテレの『ピタゴラスイッチ』という番組が好きで親子で視ていました♪
アルゴリズムと聞くと反応するのはもう仕方ありません(笑)
で、この番組の中で(動画にはでてきませんが)「おとうさんスイッチ」というのがあって、身近なハコでスイッチのようなモノを工作します。
輪ゴムの箱に曲がるストローをつけてそれをアンテナに見立て、加えて箱の上には○を5つ、例えば「あ」「い」「う」「え」「お」と書き、ボタンに見立てます。
で、「おとうさんスイッチ!」とかいって子どもがボタンを押し、そこに書かれているひらがながあたまにつく、動作をおとうさんがする、というもの。
面白いコミュニケーションだと思いました。モノの名前が解るし、簡単な工作で出来るし、お父さんと遊べるし。
おとうさんに限らず、おじいちゃんでもおばあちゃんでもおかあさんでもいいのです。
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このところのストレスは、個人で叶えたかった夢に関して、邁進している人への嫉妬だったように思います。
でもそもそも論でいうと、私は子ども達を育てるために、自分に出来る可能性のうち、MAXを取ったら、大学院進学であって、奈良という田舎の修士レベルじゃ仕事が無かったのと、子どもが幼かったので、あのままだと、やっぱりお留守番できる歳ではありませんでした。
で、論文誌をかたっぱしから読んで、京大の先生ばかりが執筆されていて、奈良女子大にも当然集中講義などでおいでですから、関西の大学に着任する先生の本流というか本殿は京都大学だと解ったので、進学を志しました。
それでも身内に研究者がいなかったので、あれほど忙しいとは思いませんでした。
嫉妬の内容は、
その①家の事を顧みないで研究に没頭できる羨ましさ。
その②育児が無いか、あるいは協力ががいて、時間が確保できる羨ましさ。
その③ポスドクなどの期間を経ない人は、やっぱり①②の難しさが無いので、自分の時間がある。
でした。個人に時間もお金も使えるという事です。こう書くと子どもに対して変な感覚の余波が生まれてしまうので、それは否定しておきます。分けて考えて下さい。
で、大学の保健学科の講師をしている団員さんも、パートナーが東北の研究施設のポスドクのような立場なんですね。別居なので、お世話がありません。また子どももいらっしゃいません。
で研究に集中できると思いきや、学生の面倒や研究一辺倒ではなく、合唱に来れるんですね。
私が研究をしていた頃は、そんな自分の趣味というか合唱を楽しむ時間も余裕もありませんでした。
伝書鳩のように研究室と病院と子ども達の学校と家とを行き来するだけの毎日が20年近く続いたと思います。
今は病気と退学と子ども達が成長してくれた事と理解の御蔭で、合唱に行く時間がやっと出来ました。
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私はその立場の違いに嫉妬していたのだと思います。
鴨川で悔し涙を流して、渡り終える頃に拭いて、笑って子どものところへ「遅くなってごめんね~。お腹空いたね。宿題もあるね。ごめんね。今からするからね。」って帰って、寝静まってから自宅で毎日深夜に研究。研究室にだって行けなかった。
子どもが病気の時はまだ病児保育が無かった時でひとり親だから自分が帰るしか無い。搬送して看病して寝静まった横で家事して研究して・・・友達だって作る暇なんか無かったし、お茶も喫茶店で勉強するために「目の前の御店にいくからなにかあったらおいでね」って時間を約束して就寝時間まで研究させて貰ってた。それが有難かった。だからこそ是非とも博士号を撮って研究者になって恩返しして、せめて収入が安定して子ども達に普通の水準の生活をさせたかった。
けれど、ドクターストップ。指導教官のストップ。
研究者は指導教官が絶対です。先生は「あなたの身に何か起こったら遺されたまだ幼いお子さんたちはどうするの?」と言われました。ごもっともでした。
だからこそ嫉妬したのだと思います。
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元々仕事が続かなかったり、借金があったり、女性関係があった元配偶者の暴力が酷くなって行き、実家に避難したのですが、その時にはもう父の病気がまあまあ進んでいたようでした。内緒で嘱託社員で年収800万もあったのに、それでも自信がなさそうでした。「俺が病気じゃなかったら・・・」とか言いだしました。これは暗に「手間をかけないでくれ」という事だと察知しました。
それで私は直ぐに古い団地を見つけて幼子二人連れて、布団ひとつと衣服少しで実家を出ました。勿論当時DV法が無かったので、自宅はばれていますから、私達がいると親に迷惑がかかります。病気を抱えている親を想うと家に居座れなかった。(独身の弟は堂々と家事も介護も放棄で家に残ったけどね)
父が亡くなってからも一銭も財産分与はありませんでした。母と弟で分けたようです。弟はそれで新車を購入したがために、急に派手になったから、周りに父が他界した事がバレました。業者はそれを嗅ぎつけて、何かと商売をしに来るものであることも、噂だけでなく本当だと思いました。
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今、親の立場となり、あの頃の私に対してどうするだろう???と思います。決して追い出さないよね。心配で。自分以外の家族の反対があっても、「一度嫁いだが、元々は大切な吾子だ。こんなに困っている時に放り出す親がどこにあるか!!!」とかくまうと思います。「おちつくまで家にいろ」と。でも現実は違いました。父は保身に回ったのだと思います。
そんな追い詰めららた状況下で入る底力というか踏ん張りと言うかそのような燃えたぎる想いと行動を私は「おかあさんスイッチ」と呼んでいます。
自分が倒れても子どもが大変になったらスック!と立ちあがれるんですね。火事場のナントカじゃないですけれど、出来るんですよ。親に対する反骨が十二分に根底にあると思います。あの時放棄された傷は一生消えないと思います。だから子ども達には絶対しない。
そう思ったら、子ども達と一緒にいられる幸せが私にとっては最も幸せな事なんだから、個人の夢に邁進している人がどれだけ社会的に認知されていても嫉妬する必要がない、と、やっと思えました。
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華やかですからね、表舞台は。
でも私はそうじゃなくて裏方でいいし、家族と一緒の時間のほうが大切です。
自分の時間もお金もそっちに使える事の方が幸せです。そういう視点というか深く内なる自分と対峙して何らかの微細な答えが見つかると、こころの大波が鎮まってきます。不思議です。
ただ、持って生まれた声があって、御縁があって育ててみたら、案外伸びてきました。ソプラノだけれども丸くて前に響きをもって出ている、と、声楽を専門としてきた先輩方に言って頂けるようになりました。
ですので、それは皆さんの御耳に癇に障るような声じゃないそうなので、もし機会に恵まれるのなら、歌わせていただきたい、貢献したい、と思うくらいの事です。
7月31日に震災遺児支援のコンサートが洛陽教会であります。あの時無心で飛びこんだ洛陽教会で歌う日が来るとは思いませんでした。小さな楽団ですがオケと一緒です。
無料ですので是非足をお運びください。そうして是非義援をお願いします。
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よこしま☆