いいんですよ、いいんです。一般に公開されているツールを使って、ブログにせよ、SNSにせよ、検閲の入らない範疇で投稿しているだけだから。
でもね、疑似科学をネットという視覚に直接的に訴えるツールにおいて、そこに素敵な画像や一般受けする巧みな言葉を使って、つまり、直接的な心理戦で、あたかも「これが崇高」「これが唯一」のようなイメージングをする商売は、止めて欲しい、というか、死活問題で止めないだろうから、読者が賢くなって欲しい、と思います。
本音は止めて欲しいですけどね。
昨夜、娘とまたとんでもない議論したんですよ。どこでそんなワザ覚えたのか(ネットだと思うけど)、詭弁ばっかり、言い訳ばっかり、論理のすり替え当たり前、逆切れ当たり前、上げ足当たり前、便宜上の言葉が通用しない・・・本当にどこまで君はバカになって墜落していくの???
って、吾子ながら、人としての付き合いを全く止めようと思いました。
すると、それは困るというか自分にとって都合が悪いとなって、どうするかというと、まだ素直ではなく、糾弾というか威嚇というか高圧的というか威圧的というか強迫的な概念で阻止しようとするのです。
なんだかね、もう、そんなワザしか身につけてこなかった事が悲しくてね。
もっと他にいっぱい示して話して実働して見せて聴かせて来たでしょう???
なのに、君に残ったのは、上記のそれらしか、ないのか???
そう思ったら、本当に、子育てが解らなくなってね。
たぶんだけど、「ことば」を「ことだま」として理解できないのね。
勿論、私は、理科系というジャンルに振り分けられます。
では何故理科系に進んだと思います?
そこに、心情が入らないからです。もっと詳細に言うと、娘のような状態の人の言動が関与しない、出来ようもない、ジャンルに行くと、
こころが振り回されなくていいんです。自分の過去の時間ももったいない、と思わなくなる。
とにかく、娘は、いまは「自分」「自分」なんですよ。
とっくに、かまってちゃんで、そうしてきたのに、心理的視野が狭いから、してもらっているのに満足しなくて、もっともっと、という。
こころの状態が不安定なんですよね。たぶん。
それは、相手が発せられた言葉にも理由や事由がある事と、その現場の慣例とがあって、娘が求める言葉が出て来ない、という環境があるからだと思います。
でもそれは、娘にだけ意地悪でそうなった訳じゃ無く、皆が画一的な効率を求める世の中になって(高度経済成長期に考えられた事)、ほとんどすべての人が知らず知らずのうちに、その価値観に巻き込まれて行ったというだけの事なんだと思います。
私は想像や空想はすきだけれど、妄想はしないし、人の心の先読みはもっともしない事なんです。
それはトラウマがあって、実の父は素晴らしい業績を挙げた企画者であり営業マンであったと、言いましたが、それは家でも発揮されて、子どものこころを本当に弄んだといっても過言じゃないように自分の都合のいいようにもっていく事を地でやっていた人なんですよ。
両親を早くに亡くして辛い人生だったんでしょうね。後ろ盾がないということは、資産が無い。ということは、何かの技を身につけるか、知識をみにつけるか、色々あったと思うんですけど、マジョリティの心理の裏をかく事を覚えたんでしょうね。つまり、世間に対して仕返しというか、信用してなかったというか、それくらい酷い事をされてきた幼少期だったんだと思います。
そうするとね、ちょっとした小さな他人の成功体験や、人が僅かに認められた事に嫉妬をします。
でも、仕方ないと思うんです。
頑張っても頑張っても生まれ変わらないと出来ないよ、というくらいの事を頑張っても、偏見でまったく成果として認めて貰えず、喜んでも楽しんでも貰えず、役にも立たなかった重たい辛い過去があるんですから。
で、ここで個体差が出るんですよね。同じ家族でも同じきょうだいでも、双子でもなんでも、なんというか受容体じゃないですが、なんらかのキャパがあって、父のようになってしまう人もいれば、
華やかな見た目上の事なんかどうでもよくて、浮き沈みの経済なんて気にならなくて、コツコツする事が自分のなかで何よりの喜びで美しいと思う気質の人であったなら、人が何をどういおうと、人に迷惑をかけずに、ひとりで幸せになっているんだから、それは外野が邪魔することでも揶揄することでも誹謗中傷をすることでも何でもなく、
ただただその環境を保持してあげる事くらいですよ、できることがあるとするなら。
それでもやっぱり、「変わってる」とかそういう訳のわからない、とっても主観的な事で、ひっそりとした世界観を集団でつぶしにかかる。
マイノリティの苦しさはここにあります。
なので、娘は、三人家族のうち、どちらかというと、私と息子が似たような気質というだけなのに、自分が仲間はずれになったような、そんな寂しさが根底にあるんだと思います。
だから、私をわざを混乱せしめて、どれだけ自分を想っているかを、本当に命懸けで確かめようとします。
なのでヘトヘトなんですが、なんというか、だからこそ、私は実の父に心理操作をされ、私の見た目ではなく、真の、心の底の、訴えを、見つけようと、理解しようとしてくれなかった事がトラウマになっているので、
似たようなアプローチの人や、言葉たくみな人や、自分に都合のいいようにもっていこうとする人を、見抜きます。
そのような人を物理的にも心理的にも頼るから、依存するから、辛いのなら、それを絶ち切る努力をします。
それこそ命懸けで。命懸けで心理操作される環境から脱出します。
それでも手をかえ品をかえて、企業や、何か商売をする人、売る人は、心理操作をします。
メディアをそれに使う事も解っています。
だから私は、創り上げられたメディアを利用する立場にいる事を回避して、メディアの物理構造を調べたり、通信構造や論理や仕組みや技術屋さんになろうとしました。
今、声楽をしているのは、自分の身体のパーツを意識して、どう発声すれば、声楽的になるのか、自分を被験者にして試している作業をしています。
それが出来るようになったら、器楽を必要とせず、歌を歌えます。からだひとつで、絶対音感があれば、合唱出来ます。
そうして、その人のこころのふるさとの歌を歌わせていただけたら、その人の佳き時代の歌であったなら、癒されると思ったのです。
このからだひとつでできることをしたかった。
工学は道具が要る。理学は紙と鉛筆が要るけど、暗記していたら、書き興せる。歌も暗譜していたら、歌い興せる。
私は、本当に無から実を創りたい。もしかすると、虚から実を創りたいのだと思います。道具ではなく、この身体ひとつを使って。
経済的だし、環境にやさしい。言葉を選べは人も傷つけない。
それでいいじゃないですか。
それで今日を生きられたら。
でもね、疑似科学をネットという視覚に直接的に訴えるツールにおいて、そこに素敵な画像や一般受けする巧みな言葉を使って、つまり、直接的な心理戦で、あたかも「これが崇高」「これが唯一」のようなイメージングをする商売は、止めて欲しい、というか、死活問題で止めないだろうから、読者が賢くなって欲しい、と思います。
本音は止めて欲しいですけどね。
昨夜、娘とまたとんでもない議論したんですよ。どこでそんなワザ覚えたのか(ネットだと思うけど)、詭弁ばっかり、言い訳ばっかり、論理のすり替え当たり前、逆切れ当たり前、上げ足当たり前、便宜上の言葉が通用しない・・・本当にどこまで君はバカになって墜落していくの???
って、吾子ながら、人としての付き合いを全く止めようと思いました。
すると、それは困るというか自分にとって都合が悪いとなって、どうするかというと、まだ素直ではなく、糾弾というか威嚇というか高圧的というか威圧的というか強迫的な概念で阻止しようとするのです。
なんだかね、もう、そんなワザしか身につけてこなかった事が悲しくてね。
もっと他にいっぱい示して話して実働して見せて聴かせて来たでしょう???
なのに、君に残ったのは、上記のそれらしか、ないのか???
そう思ったら、本当に、子育てが解らなくなってね。
たぶんだけど、「ことば」を「ことだま」として理解できないのね。
勿論、私は、理科系というジャンルに振り分けられます。
では何故理科系に進んだと思います?
そこに、心情が入らないからです。もっと詳細に言うと、娘のような状態の人の言動が関与しない、出来ようもない、ジャンルに行くと、
こころが振り回されなくていいんです。自分の過去の時間ももったいない、と思わなくなる。
とにかく、娘は、いまは「自分」「自分」なんですよ。
とっくに、かまってちゃんで、そうしてきたのに、心理的視野が狭いから、してもらっているのに満足しなくて、もっともっと、という。
こころの状態が不安定なんですよね。たぶん。
それは、相手が発せられた言葉にも理由や事由がある事と、その現場の慣例とがあって、娘が求める言葉が出て来ない、という環境があるからだと思います。
でもそれは、娘にだけ意地悪でそうなった訳じゃ無く、皆が画一的な効率を求める世の中になって(高度経済成長期に考えられた事)、ほとんどすべての人が知らず知らずのうちに、その価値観に巻き込まれて行ったというだけの事なんだと思います。
私は想像や空想はすきだけれど、妄想はしないし、人の心の先読みはもっともしない事なんです。
それはトラウマがあって、実の父は素晴らしい業績を挙げた企画者であり営業マンであったと、言いましたが、それは家でも発揮されて、子どものこころを本当に弄んだといっても過言じゃないように自分の都合のいいようにもっていく事を地でやっていた人なんですよ。
両親を早くに亡くして辛い人生だったんでしょうね。後ろ盾がないということは、資産が無い。ということは、何かの技を身につけるか、知識をみにつけるか、色々あったと思うんですけど、マジョリティの心理の裏をかく事を覚えたんでしょうね。つまり、世間に対して仕返しというか、信用してなかったというか、それくらい酷い事をされてきた幼少期だったんだと思います。
そうするとね、ちょっとした小さな他人の成功体験や、人が僅かに認められた事に嫉妬をします。
でも、仕方ないと思うんです。
頑張っても頑張っても生まれ変わらないと出来ないよ、というくらいの事を頑張っても、偏見でまったく成果として認めて貰えず、喜んでも楽しんでも貰えず、役にも立たなかった重たい辛い過去があるんですから。
で、ここで個体差が出るんですよね。同じ家族でも同じきょうだいでも、双子でもなんでも、なんというか受容体じゃないですが、なんらかのキャパがあって、父のようになってしまう人もいれば、
華やかな見た目上の事なんかどうでもよくて、浮き沈みの経済なんて気にならなくて、コツコツする事が自分のなかで何よりの喜びで美しいと思う気質の人であったなら、人が何をどういおうと、人に迷惑をかけずに、ひとりで幸せになっているんだから、それは外野が邪魔することでも揶揄することでも誹謗中傷をすることでも何でもなく、
ただただその環境を保持してあげる事くらいですよ、できることがあるとするなら。
それでもやっぱり、「変わってる」とかそういう訳のわからない、とっても主観的な事で、ひっそりとした世界観を集団でつぶしにかかる。
マイノリティの苦しさはここにあります。
なので、娘は、三人家族のうち、どちらかというと、私と息子が似たような気質というだけなのに、自分が仲間はずれになったような、そんな寂しさが根底にあるんだと思います。
だから、私をわざを混乱せしめて、どれだけ自分を想っているかを、本当に命懸けで確かめようとします。
なのでヘトヘトなんですが、なんというか、だからこそ、私は実の父に心理操作をされ、私の見た目ではなく、真の、心の底の、訴えを、見つけようと、理解しようとしてくれなかった事がトラウマになっているので、
似たようなアプローチの人や、言葉たくみな人や、自分に都合のいいようにもっていこうとする人を、見抜きます。
そのような人を物理的にも心理的にも頼るから、依存するから、辛いのなら、それを絶ち切る努力をします。
それこそ命懸けで。命懸けで心理操作される環境から脱出します。
それでも手をかえ品をかえて、企業や、何か商売をする人、売る人は、心理操作をします。
メディアをそれに使う事も解っています。
だから私は、創り上げられたメディアを利用する立場にいる事を回避して、メディアの物理構造を調べたり、通信構造や論理や仕組みや技術屋さんになろうとしました。
今、声楽をしているのは、自分の身体のパーツを意識して、どう発声すれば、声楽的になるのか、自分を被験者にして試している作業をしています。
それが出来るようになったら、器楽を必要とせず、歌を歌えます。からだひとつで、絶対音感があれば、合唱出来ます。
そうして、その人のこころのふるさとの歌を歌わせていただけたら、その人の佳き時代の歌であったなら、癒されると思ったのです。
このからだひとつでできることをしたかった。
工学は道具が要る。理学は紙と鉛筆が要るけど、暗記していたら、書き興せる。歌も暗譜していたら、歌い興せる。
私は、本当に無から実を創りたい。もしかすると、虚から実を創りたいのだと思います。道具ではなく、この身体ひとつを使って。
経済的だし、環境にやさしい。言葉を選べは人も傷つけない。
それでいいじゃないですか。
それで今日を生きられたら。