恋しさの対極にあるもの。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~







大好きな砧公園。いつの写真だっけ・・・(解ってるけど)

もはや今生では歩み寄れないのかもしれないなあ・・・



きっと私だけじゃない、って解っていても、なかなか受け容れがたい事で。

私のキャパではもう、どうにも理解が出来ない。

彼女は自閉的なところがかなりあるんだけど、自分の偏見というか生きた時代の価値観によってそれを頑なに認めようとしない。

自分の思った事を、自分のタイミングで、相手に完璧なまでに実現させるために、威嚇強迫権力を使う事を自覚していない。

思った事、というのは、自分の願望。

別段私と子ども達はそれを期待も希望もしていないので拘りもない。

特に相手の心がそうでなかった時には強要もしない。

ところが彼女はそれが解ると拗ねる。自分が恥ずかしかったのか悲しかったのか素直に慣れないのか想像を超えた強さで拗ねる。

そうするとまた聞くに堪えない言葉が発せられ当方の完全責任となる。



私の幼少の頃から。



もうどれくらいの月日が経っただろう。。。毎回毎回「今度こそは」と多少は理解したい多少は応えたいという前提で挑むのだけれど、彼女の願望は彼女の中で閉じていて、相手の都合も事情も考え方もへったくれも全く無い。常に一方通行なのだ。

私の家は機能不全だった。長女の私が、そのような父と母と弟の精神的な親のようだった。実際には私が娘で女子なので、彼らが親という立場をとったり男という立場をとると、私は縁の下の力持ちをしながらも常に責められる、という、「過度な甘えのスパイラル」に巻き込まれた。1対3だからどうにも反抗できない。そんな家だった。前に書いた通り、支配されていた。無秩序に。



もし私が本当の親なら、自閉の子どもをもった親の哀しみがストレートに素直に感じられただろう。拘りが強くすぐ癇癪を起こす。母方の長男である伯父もそのような気質だったらしく早々に家を追い出され後を継げない立場に祖父がしたらしい。その対応もどうかと思う。それを見た母は伯父にとても似た気質を優等生や仕事が出来る、という立場をとって自分を護ったのだと思う。

だけれども、母が実家を離れてからは、それが難しくなった。そもそも環境が変わって対応できる器用さは持ち合わせておらず、父方とずっと合わなかったし、私とも全く合わなかった。

本人が認めないから対応のしようもなかった。。。そうして私は就職して2年目に家を飛び出た。

結婚しても同じ様な気質の人とその家族だった。自閉的で依存気質なのである。私を経由して父に対して金銭がかかることばかりするので、『もう勘弁してくれ』とついに父がこぼした。

浮気(本気だったらしい・・息子が生まれてからも迎えに来なかったから・・・責任の大きさに潰れただけだと私は思っているけど)や借金、暴力もあった。やっと軌道にのった父の以前の姿にそっくりな配偶者だった。

父もかつての実家での自分から脱皮したかったのだろう、それが娘である私の御縁で引き戻された・・・なんとも因果であった。

そんな母でも母を見ていたので、私は離婚しないでいた。身体に無数の傷があっても、人間以下の扱いを受けても、性のはけ口の対応をされても、子どもには両親が必要だと、どこかで刷り込まれていた。

しかし、父のその言葉と、子どもへの暴力に私は立ちあがった。

まずは子ども達をおびえさせる環境は絶対に良くない!!!と、自らの経験で直感した。そうして診断書をとって逃げた。そうして身を隠しながら離婚裁判を求めた。DV法は当時無かった。本当に本当に大変だった。当時の弁護士さんや理解してくださった周囲の皆様、本当に有難うございます。

その時も、気がくるっているのは私のほうだと、責めたのは母だった。離婚して娘が帰って来ては世間体が悪いと考えた。実家の周囲は、帰って来る女性が多かった。住居地の特性として、開業医や銀行の頭取などを歴任する家が立ち並んでいたので、娘や孫が帰って来ても別段困らなかったのである。

ところが母はそれよりも幽霊のような世間体を気にした。御近所が全部御帰宅組なのに、気にする理由が解らなかった。その態度があまりに強かったので、私は子ども達と住む古くて小さなアパートがみつかるまで、と、3か月だけ、調停や裁判や仕事や保育を抱えながら、実家にお世話になり。見つかった時に「家にお金を入れられる状況になかった事、ごめんなさい」と家を出た。

ふとん1枚からのスタートだった。。。

病気が進みだしていた父は「俺が元気だったらお前たちくらい喰わせられるのに・・・」と言ったが、当時本社の一部の人の、これまでの父の功績に対して、自宅待機の嘱託社員でも年収が800万あったから、今思うと、これさえもう世帯主としての責任が重圧だ、という詭弁だったのだと思う。

こうして私は両親と弟の詭弁から、心理(真理)を察してまだまだ幼い子ども達を連れて家を出た。

実家はあるけれど機能していない家族。私は親に養育されたとは思っていない。何かにつけてお金の事ばかり。手作りのものをプレゼントしても「こんな汚いモノ要らない」と本当に言う母。

・・・それでも私の実の母である。彼女から産まれ、彼女の母乳も多少は吸い、弟を身ごもるまで育ててもらったのは記憶には無いけれど(殆ど預けられていたので)事実だ。

だから、まだ彼女が完全に老人性の痴呆が始まっていないのだから、そのうちに相互理解が多少なりとも進むと、なにかあったときに、「本人はこう言っていますけれど、本当はこういう想いからきていると思います」と、医療従事者というプロに通訳出来る。必要で適切なケアを引き出す事が出来る。

そう、まだ、看る気が私の根底にはあるのだ。

しかし・・・昨日、まったくそれが打ち砕かれる出来事があった。

何の事ない、29日のチケットの持ち分、またはけない(売り切ってしまうことができない)でいるのか、と連絡が来た。

他県だし、本人がなにかにつけ、自分をとても高齢にいうので、甘えるのは遠慮していた(小さい頃からそうしてきた)。

どうやら孫に会いたいようで、そのきっかけに使いたいようだった。

そんなこんなだから子ども達はおばあちゃんがとても苦手である。自分の非は常に完全にゼロと自負している祖母に、段々子ども達が辟易するようになった。

私の出張中に預かってもらった際に、不適切な言動がいっぱいあったらしい(子ども達のこころを傷つける、という意味)。

それで彼女の必要最低限の言葉で最大限の彼女が期待する事にならなかったので、いきなり癇癪を起こした。とんでもない汚いというか、平気でお金で困っている人の顔を叩くような行為をした。

『もう既に団員に割り振られたチケットだから私が買い取ってあるので、来なくても、御近所に無償で配っても、孫に連絡しても、どうぞお好きにしてくださって大丈夫です。それほど大変なのでしたら、京都に来られるのも大変でしょう。(実際には入院しているわけでも通院している訳でも無い。祖父の甲種兵隊の頑強な身体の遺伝を喜びたい)後でCDでも送ります。』

もう何をいっても癇癪。拘った状態が再現できないと癇癪。再現するのは私。私は神様でも魔法使いでも何でもないです。ただ地道にコツコツやっている障害者であり障害者のママというだけです。リハビリに合唱しているんです。その時間だけ救われているのです。それだけです。

興味を持って下さる方に安価でお譲りしているだけで家族だから親だから子どもだからと価値観を強要しようとは毛頭思いません。事実実家で私だけ孤立していたので、もう慣れっこです。

それでも彼女の言葉を何度も真に受けて粉骨砕身してきました。心も砕いてきました。


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

それで、昨日は、彼女からの連絡が多少あったあと、もうどうにも出来ないし完全に閉じているし、私は娘であって祖母ではないし、事実としてまだ現役の子ども達が繊細な時期の御母さんなので、母に気持ちや身体が向けないのです。子ども達をこの世に生み出した責任を取っている真っ最中なんです。ひとり親で子ども達を育てているので余裕なんてありません。

同居している独身の弟の事、ずっと、小さな時から自分に似ていると、自分の実家の家系に似ていると手放しで私の前であろうが父や父の親戚の前であろうが喜んでいたじゃないですか。彼と同居できているんだから幸せじゃないですか。無理していい母親とかいい祖母にならなくていいですよ。

・・・と思ったところで過敏性大腸炎勃発。最近なりを潜めていたのに・・・精神的ストレスがあったりトラウマが反応すると、かなりの激痛とともに腹痛が始まります。これは幼い頃からだったんですけれど、まさか家族との関わりがそうだったとは頭では解っていても実際に身体の症状として出ると痛感して悲し過ぎるのです。

子ども達は理解してくれているので『本当に辛そうだから見てられないから、もうおばあちゃんからのメールは無視していいと思うから、お薬飲んで休んで。』と言ってくれました。

ここに来て、また安定剤が毎日になってしまっています。診察でもいいますけど・・・。

誰の言う事にも耳を貸さない母。数年前の超思春期の困った娘のような状態が恒常的なので本当に家族は疲弊します・・・。