☆らんたん復活☆ | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

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おじちゃんが腰痛で倒れて6週間、今日からOPENです。

自家製麺のお店なのでおじちゃんが麺を打てずやむなく閉店状態でした。

閉まっているシャッターのお詫びの貼り紙にはおじちゃんの復活を待つ声がいっぱいかかれていました。(私も書かせていただきまして、今日、娘さんから声をかけていただきました♪)

偶然店の前の大通りをバスで通った際に息子が「あっ!らんたん開いてる!!!」と。

研究室に用事があった後、大学近くの御店で昼食を取ったけれど、入店!!!


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おじちゃん、まだ辛そう。でもお店開けてくれました。ありがとう!!!

昭和15年生まれで、両親を早くに亡くしたから、15歳か16歳で、手作りの屋台を引いて生計を立ててたんだって。いっぱり土地の仕切る人に嫌がらせされたり屋台壊されたり本当に辛い想いしてきたって。

で、やっとお店持てて、ファンがついて。でも、ただ作るだけなら、じゃなくて、天候に合わせて麺を打つから、御歳を考えると正直復活が難しいのかな?とも思ったりしました。奥さんのおばちゃんは10年くらい前に脳梗塞を患って、以来、身体が不自由になりながらも座りながら接客してくれます。お水を冷水器からコップに入れて人数分用意して、帳簿つけて、挨拶して。

本当に美味しかった!!! おじちゃんの麺はやっぱり最高!!!

色んな事があったけど、今日はもうこれだけで最高の一日♡

子どもが小さいときから、そう、京都に来た時から、息子や娘と分けて食べさせて貰ってたの。

今でも、ラーメン大と御飯大を息子と二人で、分けさせていただいてます。本来ひとりワンオーダーなんでしょうけれど、事情を最初から御存知のおじちゃんとおばちゃんと娘さん(おねえちゃん)は、今でもそれを赦して下さっています。

今日も正直に『さっきお昼ご飯大盛り食べて来ちゃったけど開いているから♡だからいつもは大だけど並を分けるのでもいいですか?』とお願いしたら、快諾してくれました。

おねえちゃんは「貼り紙に書いてくれはった?   やっぱり♡」と気付いてくれはってもいました。

御自身が御苦労の人生だから本当に学生やファンの人に優しいおじちゃんです。そうしておじちゃんのご家族さんです。壁から船越栄一郎さんがほほ笑んでくれています。



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さて、そして今日は、研究室に意を決して伺いました。

新年度早々は本当にマンモス大学なので、ごったがえししています。

教授は最先端の国際会議で土曜日からカナダに行かれているので、その間に先生が翻訳された計算機科学インタフェースの書籍を貸与してくださることになっていました。

でもいざ伺うとなると、足が竦むのです。

途中で倒れた事も自責したし、基盤に障害が見つかった事も自責しました。認定退学後、すぐに就職できなかった事も自責しました。でも他は倒れても、子ども達のイジメや治療にだけは這ってでも向き合いたかったのです。

使える社会制度をとても探して弁護士さんに相談して自治体に相談して、法律の許される中で、一生懸命に子どもと向き合える時間を作りました。

身体に無理をしてそうしていたので、子どもの事を考える以外は、倒れて居ました。

この春やっと、下の子が高校を終える事が出来る位に復調し、自分をケアする時間が出来ました。…と同時に指導教官が定年まで一年を切る年度が始まってしまいました。

そこで、出来れば私自身の復調に今度は私の時間を譲ってもらいたいと家族に願いました。指導教官にもお話しました。人生でたったおひとりの師匠と呼べる人です。

先生の訳し方を拝察したいと考えました。内容を理解するのはもちろんですが、先生の感性を継承したいと考えたのです。

研究会議に出席したいと申し出たのもそのためです。毎年春には新しい4回生が入って来ます。もう何年も見送りましたが、技術的な修得に対してコメントをしている、あるいは同期や後輩のようにコメント出来る事を目標にしてきました。

けれど、すごく頭が良いワールドワイドに活躍する後輩ですから、頑張っても頑張ってもついていけないというのもありましたし、それでは自分の持ち味が無いと思いました。

そもそも私を研究室に教授が迎え入れるべく受験を許可して下さったのは、他の学生には無い、物の見方をするからだったと拝察申し上げています。今、改めて気付きました。

そこで、です。今の若い子たちが、どんな感性で、物事を捉えているのか知りたかったのです。そりゃ研究をこれから始めようとする子たちですから、技術的にはおぶつかなかったり、たどたどしいと思います。

けれどもこれからの世の中を作る予備群である彼らの、まだまだ自由度の高い、翼の生えたといいましょうか、そのような感性は、勉強になると思うのです。そこに私が何か貢献できる事がみつかったのなら、私は必要とされているのだと感じ、今一度チャレンジしたいと考えています。

そのための御挨拶でもありました。

既知の皆さんは既に、国内外の用件で、忙殺されておられていたけれども(いつもですが、、、)、顔を上げたり、手を止めたりして、お時間を僅かでも作って下さいました。

教授も海外から返信をくださいます。

決して、決して、ひとりではないのだ、と。

勉学はドクターストップという形でついていけなかったけれども、それを内心心配してくださっているのだ、と。ずっと無理を続ける様子をハラハラしていたのだ、と。

確かに、ついていけた。一緒に海外の学会で発表できたり、報道機関向けにプレスリリースを発行し、公開する機会をこの手でつかめた日々が存在したのだ、と。それくらいの予算を国からつけていただけたと言う事(=国から期待される人間であった時期が存在した事)を振り返る事が出来ました。(震災後、私を含むそれぞれのメンバーが世界規模で居場所確認を義務付けされたのは指導教官としての職務もありましたが、国が博士たちとう頭脳を護ろうとしたのも理由として潜在下にあります。時効だと思うので明記しますね。)

その日々は無駄でもなかったし、過ぎたけれども消えて無くなってはいないのだ、と。そう、自分に思わせる事を、少しは出来るようになりたかったのです。

そのために、今回は、本当に勇気を出して、出向きました。

足が竦み、震え、緊張で一杯で、全くの挙動不審状態。加えて新年度でごった返しの大学とその周辺。

以前の私なら簡単に倒れて、うなされて、おかしくなりきってしまっていたでしょう。

土曜日の夜の事もまだ引きずっていましたし。


でも、京大大学院博士課程の厳しさを考えたら、土曜日の夜のおばあちゃんたちの事なんぞ、怖くありません。命まで取られませんから。博士課程の頃は命懸けだったので、認定退学を余儀なくされた時、ドクターストップがかかった時は、年生制限もありましたし、自ら命を絶とうと思いました。従兄に先に逝かれてしまい、人と同じことをしたくない私は諦めましたが、代わりに心が崩壊しました。


母もまだ若かったですし、子ども達を引き受けて貰える実家は、ありますから。


もちろん、教授が今どこかにポストを持っているわけではありません。

そのようなキモチで伺うのでは無く、最後の一年、一生懸命あの頃の学生のように学ぶ事で、弟子であることを、弟子であったことを、身体にこころに刻みつけたいのだと思います。



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(大学生協で購入した、赤十字寄付つきのお菓子)


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(情報学研究科に一番近い八重の桜)


そんなこんなです。

一旦、家事をしている間、脳と気を休めたいと思います。。。。

わたしはやっぱりひとさまとこころがつながっていたいです。。。