どうしても脳裏から離れません。一緒に被害被った人も「実は私も発達障害だ、って大人になってから解ってん・・・」と言ってくれました。
なので二人とも、相手の表情、しぐさ、声の抑揚、内容、全部音声の強弱つきの映像(動画)として、脳内メモリに刻まれてしまうのです。
自分の制御を超えて、お薬の力で多少は寝かせてもらったり緊張緩和をしてもらいますが、いかんせん障害なので、特に怖い想いをした場合は、もう細胞レベルで記憶してしまうのです。
特に脳と心臓の細胞は生まれ変わりません。これはiPS細胞を開発したノーベル生理学賞の山中先生が仰っていたので科学的にも医学的にも生理学的にも正しいと思います。
幸いにして過呼吸には至っていませんが、ずっとリピートされてしまいます。鬼の様な形相とか。
そもそも注意するのに、他の言葉がなかったのだろうか、感情を荒げ、声を荒げ、汎化(みんなそう、という例の決まり文句を使う事)する必要性があったのだろうか、と理解不能なんです。
彼女達の言動の全てが「不適応」「不適切」だったので、例えば分数の分母にゼロを置いてしまうくらいの混乱が私にはありました。それを感情的に高圧的に「やれっていったらやりなさい!!!」だったのです。
一体いつになったら少しは薄れていくのでしょう。今も身体が恐怖を思い出したのか震えています。それと。。。食欲不振。。。自分にとってはおデブなので別段いいのですが、悲しい事に子ども達に食事を作ってあげる力が全く沸かない。。。ただま~ちゃんを抱いて縮こまって。それでもま~ちゃんにはま~ちゃんの意志があるから、どこかに行ってしまいます。無理矢理追ったりしません。少しの間でもいてくれてありがとう。
誰にも助けを求められません。至極当たり前の事をつきつけられています。そこで唯一私のよりどころの勉強をしようと思いました。
勘違いされている人が多いと思いますので、特記しますが、私は勉学が好きで、ただ向上をしただけでやったのではありません。こころのよりどころにしていた部分も多分にあると思います。勉学はとても客観的で理論的です。それで体系化もされています。つまりおばあちゃまたちのような方がもつ価値観や概念と全く対極にあるものなのです。
正解が無い場合は、正解が無い、と表記され、学ぶ人はそれを信じるというか、それを定義や定理として証明しながら、「ほらね?だからこれは出来ないと言いきっていいのです。」としますし、矛盾する場合も、ちゃんとその照明があるのです。これは大学院でも博士課程の入学試験に出題されました。計算機科学では有名な「オートマトン」という学問です。
もう少し解り易く記しますと、たとえば、昔、集合を習いませんでしたか? 遠い記憶ですか?(苦笑) あるいは忘れちゃいましたか?(苦笑) とにかくありましたね。義務教育の指導要綱にあったので、履修していると思います。
で、その時に「空集合=φ」という概念を習ったかと思います。この概念ってとっても大切なんですよ。 「空が存在する」のです。「空は存在しない」というそのような短絡的な決めつけではなく(そのように便宜上定義する場合もありますが)が、
たとえ「空」であっても「空」という名前があるということは「存在する」のですよ。という論理的な概念とはこういう事ですよ、の第一歩の履修単元だったと思います。
学問はやがて哲学や倫理、宗教に通ずるところがあるのです。それを証拠にこれまでも書いてきていますが、博士号を取得した人は、冠に「PhD、つまりフィロソフィカルドクター=哲学博士」がつきます。
ちなみに博士課程の学生は、この予備群ということで、英語で会話する時は、「PhD Candidate」といいます。特に大学が認めた諮問会(ここまで国際的に成果を上げたのだから博士論文を執筆して博士号の登録準備をしてもいいですよ、という許可が審査を通過すると貰える)を超えた学生は、ドクターの学生です、とはいわず、「I'm a PhD Candidate」と言います。
もう何もかもが義務教育や大学院の修士以下で習う英語とは違う専門英語になるんですね。(なので、普通の会話の英会話が通じない頭のいい人がいっぱいです(^^;)情報科学系の英語の語彙しか脳にないですから(^^;))
さて、勉学ですが、声楽をしようと思った場合、おそらく、音楽のスコアを見直して技術的な復習をするか、ラテン語のディクション(声楽的に遠くに飛ばせ、かつ意味がちゃんと通じる発音技術)をすると思います。(普通の朗読とホールで聴こえる朗読の発声が違うように)
情報科学に関しては師匠が訳された大書を貸与していただけたり、研究会にも研究室にも自由に出来りが出来る了承をいただいたので(OBなので別段許可をえる必要もないかとは思いますが、研究室運営トップの指導教官=教授に予めお伺いを立てるのは慣例的に礼節となっています。)その大書を読破したり、あるいは研究室には助教や講師や同期の准教授もいるので、『今の学生には何をどんなアプローチで最先端技術を指導しているの???テキストちょっと読ませてもらっていい?それとあの専門書気になったんだけれど貸して貰える???』が全く何の問題も無いので研究室に缶詰めになろうと思います。
海外という知らない土地で、知らない人に感情的に叱られて、それにつられて指導教官が激しく私を英語と日本語で建前上でしょうけれど叱責なさいました。現行では立派なハラスメントですが、オバチャンには適応不可だったのでしょうか?20代前半の美人で有名な他大学の修士の女子にはみんなデレデレでした。(研究をみてくれよ!!!!場所は中国の武漢でゴザイマシタ。←あんなガサガサした国、二度と行くか!!!!)
話を戻します。勉学に没入することで必要のない感情を自分の中で切り離せるのです。表面で振り回される事無く、根幹を見抜く技術を習得する訓練をする、という意味です。
それもあって、私は普段、そのような脳の働かせ方をしているので、昨夜のおばあちゃまたちは、失礼ながら動物的というか、うちのま~ちゃんでもあんな事をしないので、「人間なんだからもうちょっと知的で礼節のある言動をしようよ・・・80年も生きて来て一体人生で何を身につけてきたの!?人を集団で威嚇することだけなの!?」という事が私が一番傷ついた事なんです。
大切な命をただぼーっ!と生きて来て、人を頼って、集団論理を使って、なんと人として美しく無い素養に御自身をしてしまわれたのだろう・・・そう思うと哀し過ぎたのです。
年長者になればなるほど、誰も指導してくれなくなります。その事と当人が正しく適切で美しいのとは同値ではありません。
全く気付かずに、どれだけ人生に鈍感に生きて来られたのかと思うと、哀しくて哀しくて仕方ないのです・・・自分が目立つ事しか考えていない・・・
あ~、まだ抜けない・・・・うんと難しい専門書をもしかしたら英語論文読んで、ちょっと冷静というか、感情で与えられた傷から目を逸らせるかやってみます。
すんごくやらないと、ぬぐえないよね。だから私は命懸けで勉強して来たんです。想像を絶する厳しい環境でやってきました。確かに少し前のことだけど、周りが心配になって止めるまで邁進していた事は、自分を褒めてあげたいです。
考えても見て下さい。シングルマザーが京都大学の大学院、博士課程という世界でも最先端の研究を研究室や学術研究会の運営スタッフの役割とともに(もっと役割がありました)やってたんですよ?
その素養を見抜けない、という事は、その環境に自分を置いた事が無い人。理解できるはずもないじゃないですか?見た事や関わった事がないんでしょうね。世界的な天才や秀才だらけの世界を。
理解できないだろうから言わないけど、本当に人として失礼な人たちだわ!年長とかおばあちゃんとか合唱団歴が長いとか関係ないわ!人間性だもの!もしそれを言うなら、それだけ長く人間やっていて、自分をどれだけ成長させる努力をしてこられたら、そのような言動が出来るように成るのか、聞かせていただくので、説明していただきたいです!!!
ご清聴ありがとうございました。