私は親不孝・子不孝なんだろうか… | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

娘が二年生の終わり、

息子は年長の終わりだった。


地方の国立女子大の修士では、子どもを二人抱えた三十過ぎのシンママには先は明るくなかった。


父は亡くなっていたし、母は高卒の専業主婦だったし、弟はフリーターとニートを繰り返していた。


ならば子ども達を預けられそうなものだが、母も弟も理由がDVであれ、離婚は我が儘で自分勝手だという考えらしく、全く非協力的だった。


まあ、父が生存していた頃から夫婦は不仲で、母は生きるために正妻の座を棄てる事は無かったが、父のみならず父方の親戚全てと不仲だったので、私の実家は父方とも母方とも距離があった。


だから孤軍奮闘するしかなく、当時子ども達と私は互いに正座をして、


私は子ども達に頭を下げて『よりレベルの高い大学の博士課程に挑戦させてください』と申し出ました。


チャンスは一回のみ、という約束で。


そうして引き受けてくれる研究室を探しに探しました。


やっと会っていただけたのが、次期大阪大学長の西尾先生。


そうして京大時代の同期である指導教官をご紹介いただきました。


当時の私の学力では阪大なんて雲のそのまた上。

なのに紹介された指導教官が勤務しているのは京大。


受験にバスする自信なんて、絶対零度くらいの、えぐるようなマイナスでしかありませんでした。


だから誰しもが信じてくれないだろうと、内緒でコツコツ勉強しました。


過去問を取り寄せ、模範回答を研究室の若い子に頭を下げてお時間をいただいて教えていただいたり参考図書を教えていただきました。

同時に実技、研究発表のプレゼンテーションも勉強しないといけなかったので、それは受験準備の研究生として、正規の学生に混じって研究会で厳しい意見をいただき、内容をブラッシュアップしたり、敢えて意地悪な回答に窮する質問をされてメンタルも鍛えていただきました。


若い男子でも頓挫する子がいる程の訓練です。


同時にプライベートでは預けるところは学校と学童しかない二児の母。


全く自分の時間などありませんでした。


だから正直、合格はしたものの、いつまでもつか解らないと思いました。事実、半年で白旗をあげて元の自治体に戻ろうと思っていました。


けれど、今の境遇でありながら、世帯主として子ども達を育てるためには弱音を吐く事を、指導教官の後輩にあたる人工知能のエキスパートでいらっしゃるI先生に諭されました。

他の大学出身だから京大の博士課程の最短年限である三年は修行しないと、もし僕が今の君の履歴書を見たら、京大での三年に満たない業績はノーカウントにする、と現実をつきつけられました。


受験した履歴が無駄になる辛さより、こんな私のために私どころでないつらい目をさせてしまった子ども達に申し訳ない気持ちがわき、堪え忍び修行を継続しました。


様子を見に来ないし、相談しても子ども達だけでも安定した実家に預かるという発想の無い実家で母は、あれだけどうなるか解らないし、事実を知らない人から偏見やレッテルを貰うから内密に、と言っていたのにご近所に話してしまっていました。

ご近所より勘違いした母は、万が一うまくいって博士号を取ったとしても、更にラッキーな勝ち抜きに至らないと、アカデミックに残る場合は特に、ポスドクというまだまだ不安的な立場になる、長い長い道なんです。


脳天気に周りに吹聴するより、生き方を、家族の養い方を相談したかった。


そういう意味で父を亡くしてしまっていた事は致命傷でした。


そうして、私は追い込まれ、精神を蝕んで行ってしまったのでした。


こんな私は脳天気に吹聴するだけで理解をせずにいた親に対して、せめて目立たないように鎮かにしていてくれないか、とだけお願いしたのですが、

それは親不孝、母不幸なのでしょうか。


子ども達には改めて土下座をして、障害者になってしまったり、激しい競争に勝ち抜け続けられる程冷酷に成り切れなかった事をお詫びしました。


お詫びしたからと言って、裕福になるわけも、私がよくなるわけもないのですが、

本当にこんな私について来てくれて、私をお母さんと認知してくれて、気にしないでいいと言ってくれて、有り難いより申し訳無さで一杯です。


だからこそ、何か、何か、人様のお役に立てるひとつのものを身に付けて、社会に僅かに貢献できるようになりたいのです。

頑張り続ける姿を見せる事くらいしか子どもに与えられるものが無いのです。


こんな私でごめんなさい。
お薬も必要でごめんなさい。


許してください。