私のいのちの源。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~



こうして、たかだか、マイページで並んだだけで、更新時間が近いというだけで、本当に幸せだった。。。ミルク入りだな


人が欲深いのか、私が欲深いのか、大学(院)を休学し治療に専念するようになったからこそ、
やっと行けるようになったライブ。


当時は、カシオペアが無期限休止を発表していた。奇しくも同じ2006年。カシオペアは8月付けだった、っけ。私は11月の頭にぶっ倒れました。(精神もね。)


今思うと、当時の周りは、本当にささくれてた。余裕が全く無かった状態。そもそも同じ研究室の同じ学年に博士号を狙う人間が、えっと。。。5~6人いた、っけ。もっとかな?D(博士課程の事)3にそれだけ在席しているという、マンモス過ぎる状態は、本当に珍しく、なんならもしかしたら、目の行き届く、という教育としては危ない状態だったのかもしれない。


個性溢れすぎるメンバー。外部の人から見たら『何も違わないじゃん!』というくらいの緻密な箇所を攻めて、それぞれが絶対相容れないし、『一体私たちのどこか(概念)どう同じというの!!!』を本気で固持している日々。心はうんと前から擦り切れてた。


私、逃げたんだ。昔で言う処の高橋惠子さんの逃避行みたいなもんかな。東京の知り合いの処に突然おじゃまして、大量のお小遣いを子ども達において(二人とも丁度不登校だったし)。


他の若い学生は家庭なんぞ持って居ない状態。博士号を何人出すか、も、教授の業績となるので、したくもない国際的な、関西弁でいうとえげつない競争をしないといけなくて。

そんなこと、しないとイケないなんて、知らなかった私は、もう、本当に大きな渦に巻き込まれて転覆したんだと思います。。。

子どもの事もそう。外に対して暴れるという形ではなく、ひきこもるという形で思春期を迎えたのではないだろうか、とは解っていた。京都はお受験熱心で、特にこの界隈は文教地区だし、お医者さんや大学職員などが多いです。

けれど、多くの人はマジョリティのステレオタイプの考え方が通説となっている。私の親も親戚も友人もそれで理解が無かった。子ども達もなんだかんだで、私しか親はいないし、私じゃないとダメ、という時期だったんだろうと思う。全てが重なってた。

子どもを育てるために、自分にスキルをつけに乗り込んだ大学院。教授に大きな予算がつくたび、大学外に大きなオフィスを借りて、移動して、そこでそれまで以上に成果を出す必要があって。

もうカミングアウトしているけれど、自閉的な私は、座席ひとつさえ、変わると調子が狂うので、オフィスが変わり、雰囲気が変わり、座る位置が変わり、デスクの種類が変わり、方角が変わり、新しいスタッフが増え、外交も増え、、、シンプルに大変だった。

学生といえども博士課程の人間は、研究室の運営の仕事を担います。やがて自分がその業界に行くための過程でもあるので。だからRA(リサーチアシスタント)といって、海外の学術会議で自分のところの研究室を宣伝するとか、どんな研究がおこなわれているか、など、交流も必要だし、下級生は引率しないといけないし、ただ学問だけをしている立場ではないんです。

☆これは殆ど理解されていないです。。。だから研究室内では同じ大学院生でも博士課程の人間は教官予備群なので、序列がしっかりしていて、修士以下の学生からは立てて貰う事がよくあります。それに驕ってはいけなくて、そう慕ってくれている事を励みに、もっとよりよい指導をしなくては、と、自分を奮い立たせる毎日なんです。。。☆


私はプライベイトでもそれ以上の事を求められていました。いかんせんひとり親だし、親戚はなぜか近寄らない。

本当に勘違いされていました。勉学が出来ると他の何でも出来ると思い込んでいる人のなんと多い事か!!!!人にやらせる事のなんと多い事か!!!!

責任のかかる事はある一部の人間に集積するのだと、大学院でも解ったけれど、一般社会でもそうでした。で、それでどうにかやってみると、面白くないのか、叩かれる。。。

もう、精魂尽き果てていました。

そんな中で、思い出した、自分の心根がやすらぐ音。

この人の音は、私にとっては本当に心地よくて仕方なかった。高価な機材かもしれないし、スポンサーもついているかもしれないけれど、そうじゃなくても、発信する音は本当に心地よかった。

違う人が同じ機材を使っても同じ音が出ないように、あの頃の私の本当に拠り所だった。。。

震災が起き、大学でも大学間の応援で、東日本に一杯物資を送りました。その仕事もありました。

けれど、私は、この足で、大学の力をかりないで、個人で(大学には内緒で)被災地に向かいました。丸腰で。

大学の看板がない、私に何ができるだろう。私のそもそもの魂が何をどうキャッチして、波及効果があるだろう。そう思いました。

子どもを育てるために、大学院にいっただけで、やがて職員になって、自分を自慢したいと思って行ったわけじゃないのです。

だから、認定退学して、どうにかこうにかしているうちに、不登校と精神疾患を抱えながら、どうにかこうにか二人とも高校卒業の資格を得て、今に至っていて、それぞれ二人が自分の中に大学に行きたいという、それなりの大義名分というか、確固たる目的が未だないので、それにしては周りに流されて目的もないままに大変高額な学費を私にも自分にも負担を強いるのは、本当に人生において必要なんだろうか?と考えているようで、

それが出来るようになったもうすぐ成人の我が子達を見て、かつて「私は父に4大卒業させてもらったから自分の子ども達にもそうしたい」と思った事は、もう昔の事なんだ、と、そう思ったら、

自分のスキルを自慢したり、要らぬ競争をしたりする事が必要な側面がほとんどを占める学術界には、深層ではもう戻りたく無い、もうあんな想いはしたくない、というのが本心かもしれません。

しかし、一方で、色んな事を棄て、身体ひとつで、学術界に向かって、修業をさせていただいて、そこで命懸けで身に付けたモノを、もう必要ないから、と、断捨離のように捨てる勇気も私には未だありません。

14歳の頃に、親を喜ばせたくて、喧嘩をして欲しく無くて、覚悟を決めて勉学をするようになってから、身体を壊して周りの全ての人からドクターストップがかかるまで、25年ほど本当にわき目もふらずまい進してきました。

それは目的もあったけれど、一番私に無い能力だったと自覚しているからです。親戚の誰にも進学した人間がいません。それほど、良く出来る遺伝子がある訳ではない事を、誰より私が一番解っていました。だからひとの何倍も、寝食を忘れてくらいじゃないと、ついていけないのも解っていましたし、そんな甘い世界じゃないのも解っていました。

だから、理解あって、サポートをしてくれる家族を持っている人達を、とても羨ましく思ってもいました。どれだけ頑張っても私の場合は、その理解がありませんでした。「あの子は勉強が出来るから(⇒きっと何でも自分でやりくりできる。)」という決めつけで、放置でした。

そう思うと、私が勝手に親を喜ばせたかっただけなんです。私が勝手に子ども達に寄り添いたい、と思っただけなんです。もちろん子ども達には見返りは求めていませんから、どんな苦労をしても、どんなにこっちからアプローチしても、「要らないー!!」「ウザいー!!!」と言われても、寂しいけど腹が立つということはありません。

けれど、年長の世代からは違いました。反対の立場になったときに「せっかくこれだけしてやったのに!」という言葉がいつもありました。子どもに、特に女の子に投資するのは、本当に嫌だった、というか、時代がそうだったのかもしれません。

弟を含め、いとこも男子ばっかりだったので、興味を持つのは男子が好きなモノが多かったです。メカ好きだったし、音楽も車も。影響はいっぱい受けていて。

でも、私がサポートをする事はあっても、助けてもらう事はなかったような気がしますし、それが私の周りの当り前だったので、別段気にしていませんでしたが、進学に際して文化圏を離れ、いろんな文化に触れると、家族や親せき同士の思い遣りや支援、に関して、何と孤立していたんだろうか、と思う事ばかりでした。

振り返ると、ヤキモチ妬きな親戚ばかりだったので、姪であっても、「社会的に」(←これもステレオタイプだと思いますが)うまくいくような気配があると、そのうちに潰すんですよね。弾協力も含めて、困っていても知らない~!でもこっちが困った時は宜しくね!だって、末の弟妹の子どもでしょ!勉強出来るんだから、何でもできるんでしょ!って。

世の中はマジョリティが市民権を得るから辛いです。孤立します。理解されないから。そうしてマジョリティ側は不自由しないから、ピンともこない。

・・・また支離滅裂な事を書きました。

まさに私が15年前に修士の頃に研究した『情報過多による信用劣化』が、私の脳内でおこっています。

勉強しなさい、○○君は京大、□□君は阪大、△△さんは神大、、、だから、よこしま☆がそんなバカだとお母さんは恥ずかしくて外を歩けない!!!と、本当に人生を返せ、と言われて、大学受験を失敗した時に、本当に泣かれました。

それもあって、お母さんを傷つけたのは、お母さんの人生を無駄にしたのは私が勉強出来ないからなんだ、と自責し、ずっと気にしていたのもあって、離婚を機に一発発起して、大学院を受験して今に至っていますが、途中から、「大学院にいったら高給なんやろ?(私は初任給も知りませんでした。)家の改築して。もう20年近くなるし。」と、過呼吸で倒れている横で言いました。

あ~、、、子どもの人生や命より、自分をいかに周りによく見せるためのものを、給料を取って来る人間に求めるんだな、って。生まれてずっとそう思っていたんだな、って。そのような人を私は母親と慕って生きて来たんだな、って。

本当に肉体はあるけれど、心が全く通じていない気がして、父が亡くなった直後以上に堕ちました。

子ども達が不登校になってすみませんでした。ゆうめいだいがくにいけなくてすみませんでした。一生をお返しできなくて申し訳ありませんでした。

この私のこころを読んだ、あっこちんさんは、このわたしを「おやのせいにしている」と糾弾しました。

ごめんなさい、の見え方が、違ったんだなあ、と思いました。

だからね、わたしはどこからきて、なんでいまいきているのかわからなくなるんです。

べつだん、だれかのおやくにたてるわけでないし、いみやかちがあるのかな、って。

野呂さんの音楽を聴いている時は、そんな想いなどが癒されて、哀しみが言葉じゃ無く涙で吐露されて、そのまま眠れたんだ。。。

色々あって、今は、彼の音楽も勇気が出なくて、聴けない。。。

声楽をしたけれどムキになっていたのかもしれないなあ、とか思ったり。

娘が生きるか死ぬか、の時に、無の状態で、洛陽教会にとびこんで、マリア様の像を見て、讃美歌歌ってみたら、宣教師さんが、「美しい声ですね。神様からの贈り物ですよ。」と言ってくれて、

この声をまっすぐな心で修業して、天に届けたら、大切に思う人が健やかになるよう、神様が効き届けてくれるかな、って思って。

いまの合唱団の入団の時の発声テストでも、テナーのリーダさんが、「高音特に綺麗な声してはりますね~」といってくれはって、マエストロも受け容れてくれはって、他のリーダさんたちも、自分は初心者だから、といつも通う補習練習のようすをみていてくださって。

だから・・・昨日、れんしゅうに行けない身体の状態になった事は、また無でもなく、虚無でもなく、ただ虚な気がして、辛くて。

。。。明日は、震災遺児さんたちへのボランティア合唱団の練習です。

行けたらいいな~、、、って。

私はプロじゃないけれど、人さまから声に対して対価をいただく生業ではないけれど、何人かに褒めていただいた「声」を出来るだけ健やかに真直ぐ清く育てて、天高く、空の向こうに届いたらなあ、って、

ただ、それだけで歌っています・・・・それはプロじゃないから、NGな事なんでしょうか。

。。。。。いっぱいいっぱい混乱して、もうよくわからなくなりました。

あの頃の素直な心を思いだしてみたけれど、人は変化がつきもの、のようにおっしゃった野呂さんと投稿一覧がとなりになっても、もう、あの頃のように、ウキウキはなくて、なんだか悲しいだけなんです。

ライブも行けてない、足が竦む。音源も聴けていない、心が竦む。

・・・なんだかね、怖いんです。

訳のわからない、競争論理。

おだやかに、なりたい。。。こころの高波、鎮まって欲しい。。。。心にも津波は来るみたい。。。本当にもう許して欲しいのです。。。。