救われない代替医療の実態 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ 量子アニーリング的人生(ま~ちゃんといっしょ)~

ツイッターで『裳華房』さん(出版社)をフォローしている。学術書がメインのそれだから。

今日のツイートにかねがね気にしているタイトルのものがあがった。松浦晋也氏の“読書ノート”というコラムというか概説文書だ。リンク:http://www.shokabo.co.jp/column/matsu-21.html今回は『ポール・オフィット 著『代替医療の光と闇 -魔法を信じるかい?-』
 (地人書館)』について概説している。

~最適箇所抜粋~

レートリル(←杏の種などに含有されている加水分解されると青酸化合物になる代替医療に使われた薬の名前)の例は、代替医療が世に広がるプロセスの典型だ。
まず「自然の物質」「穏やかな効き目」「副作用がない」といった耳当たりの良い宣伝文句がある。薬効のない物質でも信じてしまえば効くというプラシーボ効果が存在するので、実際は効かなくても全然構わない。対象となる病気は、ガンのように苦痛や不快感が大きく、現代の医療では治りにくいものがよい。
 すると文字通り“藁にもすがる”ようにして、患者が集まってくる。彼らは本当に困っているので、金に糸目はつけない。集まってきた患者をプラシーボ効果で洗脳して信者にすれば、勝手に代替医療を宣伝して拡げてくれる。マックイーンのような有名人を信者としてつかまえることができれば、広告塔として役に立ってくれる。すると、効果的な集金マシンができあがる。
 集まった巨額の資金を使って政治家に働きかければ、代替医療の合法化も可能になる。いったん巨大市場になってしまえば、そこで働く人も増えるので、政府であってもおいそれと非合法化はできなくなる。つまり儲け放題だ。

~抜粋箇所終わり~

プラシーボ効果というものは、少し勉強すれば知っているモノ。それゆえ、私も大学病院の医師の処方箋⇒薬剤部からもらう薬剤に対しても、こんな事がされたくないので(当り前)、服用するまでに1年半勉強したおした。結果、大学に講演に来られた厚生省の薬剤認可委員をされていた千葉県の女性産婦人科医が、世界人権会議でもこづかれている日本女性の受動的な立場の改善というアプローチで、「女性のライフスタイルとホルモンとの付き合い方と予防対策」について医学薬学に詳しく具体的に話してくださり、私は自分の特徴からSSRIを選択するのが好ましいけれども、流派が大きくは3系統あるから、自分に合う薬剤の処方を主治医に申し出て、自分の身体の事なのだから、主体的積極的に治療に参加する姿勢が、まずは「日本女性の受動的な立場の改善」の第一歩だと教わり実行している。その際に、漢方薬ももちろん学び倒した。

今の薬剤や難解な受容体にアプローチするというまさにミクロの世界になってきているので、受容体を勉強している。細胞の外にあるものもあれば、性ホルモン(女性ホルモン)の受容体のように細胞内にある(効果を発動する)受容体もある。しかし、これらが解ると、「この薬剤はどこにアプローチするものですか?」と質問できるし、身体症状の実データと見比べて、「使いたい使い方を考え、実際に私の身体症状(特徴を含む)からしてもそのアプローチ(受容体)ではない気がします。」と薬剤の取捨選択が出来ます。そのために知識を蓄えます。難しくともそれが自分の身体や人生を護る事だと考えるからです。

その時に、よく、この代替医療に近いアプローチを取る人に多く出逢います。丸呑みというか、傾倒し過ぎるというか、盲目的というか、藁にもすがる想いから来ているのだと思いますが、やっぱり藁ではイケナイ事を、今一度大変な時だからこそ、立ち止まって考えて欲しいのです。

そのためにも『慌てない』事。焦燥感があったら、自覚して、落ち着く事。そうすると見えて来ます。

もちろん強く信じている人は、私の言葉なんぞ、耳を貸しません。ほんのちょっとつついただけで、劣化の如く怒ります。それは糾弾にも酷似している態度で。

そのような人は、この概説文書が「やっぱりここでも書かれているんですけれど、まだダメですか?」という意味で、やんわりとツンツンしているんですけれど、やっぱり信じていたものを変えるという事は、人間なかなか出来ず、特にプライドが高い人や頑固な人には難しいので、これまた、

『どうせ、権威のあるものから、自分に都合のいいモノを選んで、それで紹介しているんでしょ。』といい、やっぱりはねつけるのです。

当人同士がそれで良かったらそれでいいんですよ、究極はね。家族が強く関係して、その時は見送られる(とされている)から。

でも、医学や薬学に関する知識というか、学に対するアプローチって、どことなく宗教観のような側面も強く持っている事を知らされますね、特に昨今は。

だから主治医なんだと思います。昨日までずっと私自身もある事をつっぱねていました。昔父に言われた事です。『人は一度レベルを上げたら下げられない』という言葉でした。具体的にどんな事象のレベルをどうあげてしまったら、どんな事が譲れなくなるか、という言葉ではなく、先のように抽象的なので、ずっとずっと考えていたし、解せないでいました。(それは自分の事を一般化・汎化しているんじゃないか)と。

でも、ふ、と思ったんですね。プラシーボ効果をとうの昔に知ってしまっている。もう中学生や高校生の時には知っていたんじゃないかな。漢方薬も実際に私が一過性だけれども重度のネフローゼになって西洋薬だけでは効かなくて、当時の泌尿器科の先生に併用していただいて、産婦人科の先生や眼科の先生や内科の先生と連携していただいて、呑み合わせ(←全部点滴だったので点滴合わせ???笑)を考えて投与していただいた、経歴。決して全てうまく行かなくて、医療事故になりかねない事もあったからこそ解った医療スタッフの皆さんとの長いお付き合い・・・。

そんな没入的にも俯瞰的にも医療の当時者(患者・被験者・家族)として密に長く関わってきたからこその、知識と経験の両側面で、やっぱり代替医療を全否定はしないけれど、それが全てになってしまう思考の人の危険性を杞憂し、警鐘を促してきました。

私がフツーのおばさんだから、耳をかしていただけないのか、と、理科系の博士課程にも進学しました、当然、子どもを養うために身を立てる修業でもありましたが、信憑性のある言葉を発する人間として近しい人に耳を貸してもらいたかった、という背景もあります。そう、実の両親や親せきが、あまり耳を貸してくれる人達ではなかったからです。

でも、それも、違いました。何をどうしても、そのような人達は耳を貸しません。国会議員であっても、医者でも、誰でも、自分の言う事が中心なので、それが正しいとか根拠があるとか論理的だとかではなく、いつなんどきもどんな精度でも、自分の言う事を叶えて欲しくて、人のそれは受け入れない、という一方通行の形のひとつだったように思います。

今で言う処の、コミュニケーションスキルやソーシャルスキルに相当すると思います。

タイトルは代替医療というちょっとキャッチーなもので、導入もそれでしたが、どれだけ時間を費やしても、どれだけ努力しても相容れないものはあるのだ、という事を、人生を通じて痛感した、よりによって両親など肉親でそれは起こっていたからこそ、私は悲し過ぎる人生だったのかもしれない・・・という想いもついでに吐露させていただいています。

父の晩年は本当に私の拙いながらもおそらく客観的にはそれなりに頑張ったスキルや知識や知恵や経験も、全てリジェクトされて、人の意見に耳を貸さない父の姉たちや母が主導で構築されて行きました。父は「殺される」と呟いて最期の入院をしました。そのとき、とんでもない無力感に苛まれました。あの時ほど、自分が医療従事者というか、たとえば問題が起こった時に最後にお願いするとされている専門家(医師や弁護士など)でなかった事を後悔しました。

最期が解っていたから、その期間を穏やかに過ごしてもらいたかった。父の晩年は本当に周りが先に殺伐としていて、父は最期を迎えるには辛すぎる環境だったのではないか、と、今でも後悔しています。そうしてずっと後悔していくでしょう。

今でも、伯母や母は、強気できままなおばあちゃんとして、自分の人生を自分の言いたい事を言って、やっぱり自分中心で過ごしています。どこかしら羨ましくて、どこかしら疎ましいです。「はい、済んだ、済んだ。」みたいで。

父の命はなんだったんだろう・・・って思うんです。父の能力や経済的価値観だけが受け容れられていた気がして辛すぎるのです。だから今でも亡くなったと思いたく無い気持ちがあるのだと思います。

難しいですね、何を信じて、何を信じないか、何が信じて貰えて、何が信じて貰えないかの線引きって。私はずっと悩み続けるんだと思います。引けないような気もします。

すみません、長文でまとまらなくて。とにかく心身を休める期間なようです。デトックス期間なのかな・・・いろんな意味の。