ちょうしがわるくなると、かんじがこわくなります。ひらがなは、まあるくて、やわらかくて、やさしいかたちをしているから、かかわれるみたいです。
あれからもまだまだだめで、おくすりをわすれていたことをおもいだしたのはいいけれど、いつからのんでないかをおもいだせないのははじめてなので、かなりかなりしょっくです。
きおくにこだわるのは、ちちがなくなるまえに、まだわかかったのに、わたしがちちからとつぜんきえてしまったしょっくがあるからです。わたしはじつのむすめで、せんもんちしきがないけれど、いっしょうけんめいかんごしさんにしつもんして、ちちのふたんがないよう、かんごしさんがするようにがんばってました。
だから、わたしがきおくからきえたあのひも、わたしをかんごしさんにしちゃったんだとおもいます。それからは、わたしは、かんごしさんのやくをやりとげました。
もうひとつは、りょうしんのこんぷれっくすです。ちちもははも、かていのじじょうで、べんがくではやくからみをたてるひつようがありました。
ほんにんたちが、わかすぎてまわりのかじょうなしんぱいにあい、ほとんどこころざしをつらぬくことはできませんでした。むかしは、かぞくおもいでした。わたしのせだいも、おとうとがいれば、だいがくしんがくをおとうとにゆずるようにあつりょくがかかったせだいです。
だからわたしはちいさいときから、りょうしんのこんぷれっくすをもしょうかできるように、と、しごかれました。
たんじょうびはまいとしじゅけんしーずんなので、いっかいかにかい、ともだちになっておいたほうがいいとははがきめたときだけおいわいしておともだちをよべました。
かんりょうや、りょうけや、おいしゃさんや、べんごしさんのこどもであるおともだちのときだけ。
ははがそだったせだいはそんなかちかんだったの?ってかなしくなりました。
すぐひとをらべりんぐして、わけへだてして、たいどをかえるひとでした。とうじはそんなかちかんだったんですか?わたしはしりません。
とにかくうまれてすぐに、ようしはらくだいてんでした。だからかじをおぼえるより、べんきょうができるようになり、ざいばつけいにはたらきなさい、となっていました。
だから、ははのおもうような、たいみんぐ、と、はやさで、ははのおもうれべるにあがらないと、そのたびに、にんげんとしてののうりょくがまったくない、とされ、ほかにもきにいらないことがあるとごはんもなかったし、ふくもかってもらえなかったです。
ははは、おちゃや、おきものや、こんさーとや、おしばいや、でぱーとにいつもいっていたのに。きものもいいものをかっていました。おちゃのどうぐもです。
ずっと、ちび、でぶ、ぶす、あほ、いやらしい(かんさいべんでせいかくがこそくでひんまがっているといういみです>が、あびていたことばです。
ちちからはぼうりょくもうけていました。
ちびじゃなければ、ぶすじゃなければ、ほそかったら、あたまがよかったら、せいかくがよくて、おやにつくしてつくしてつくしたら、ことばやわたしへのぼうりょくはすこしへりました。
だからわたしは、こんぷれっくすがおおく、とくにようしにはじしんがないし、おかねをかけてもどうにもならないと、おこづかいはぶんぼうぐだけでした。
だから、きおくがぬけおちることは、いのちがぬけおちたようにかんじるにんげんになってしまっています。
これらはじじつですが、あるひとに、おやのせいにしている、といわれました。
いいえ、こどもにこのましいせいいくかんきょうやげんどうをじゅんびするのは、おやのぎむとせきにんです。
ふたごのおおかみしょうじょのかたほうがにんげんにひきとられ、かたほうがそのままおおかみからひきはなさなかったのちのふたりのちがいをみれば、おやのせいにしている、なんてかんそうでてきません。
わたしは、りょうしんににた、かおつきやからだつき、ししつ、しょうらいせい、かのうせい、を、せけんのかたがきがあるからとか、ではなく、ただただ、いのちとして、あかちゃんのころくらいは、あいしてほしかったのだとおもいます。
だからじかんがかかるんです。いえ、にんげんは、うまれやそだちにすぐもどってしまうから、じかんをかけて、なんどもなんども、いきているうちは、にんちこうどうくんれんをしていくのではないかなあ、とおもいます。
だから、せいしんかで、ちりょうされたり、くんれんされたりすることは、にんげんがひつようさいていげんのそんげんをきょうじゅするために、むしろあたりまえのことだとおもいます。
あたりまえのことを、しろうともくんれんしようともしない、けんじょうしゃというわくぐみにあまんじている、あるしゅ、しょうがいしゃをみくだすおおくのひとで、
このしゃかいやちきゅうがなりたっているなんて、かなしすぎます。
また、このかんてんをもたないなんて、おそろしいです。
わたしは、おそろしくて、こわいものは、ほんとうにだめで、しんぞいがどきどきして、いきがくるしくなります。
あかちゃんのなかにもなかないあかちゃんはいるし、じぶんのよっきゅうをみたすためにあかちゃんにむりをしいないおとなもいます。
そうおもうと、なくとたたくようなおやだったので、かいけつほうほうが、いあつや、いかくや、こうあつや、ぼうりょくでしいたげるすたいるだったので、
のびのびしすぎていて、それがゆるされてきたであろうひとをみると、
じぶんのせいいくや、おやがじつはかかえていたかなしすぎるおいたちがでてきて、しぬほどつらいのです。
どのこどもにとっても、とくにちいさいころのおやは、かみさまであり、ぜんちぜんのうのしょうちょうです。
わたしだって、おやのせいにしてる、と、かんちがいされるようなおやのじじつをかきたくなかった。わたしにとっては、ゆいいつのおやだし、わたしをたすけてくれるはずのひとだと、じぶんよりこどもがさきとおもっていると、しんじていました。
でも、からだのびょうきになったり、こころのびょうきになったときに、おかねをかせげないじゃないか、このやくたたず、といわれたときのしょっくときずは、そうかんたんにきえません。
わたしもこどもにめぐまれましたが、かれらのがくれきがひくかろうが、しょうがいがあろうが、あいしてやみません。
それがじじつです。
わたしのじんせいのまとめなんて、わたしがしぬときにさえ、わたしができるかどうかわからないし、ちょくせつかかわった、つらくしんどいときも、じかんをくださったひとに、せめてめいわくはさいしょうでありたいとねがうだけにとどまっているのに、
おやのせいにしているとかいう、じぶんのものさしだけのいけんは、しつれいです。
そう、いのちや、じんせいにしつれいなひとは、たとえかみさまでもおやでもあこがれのひとでもせんせいでも、わたしはおこります。
これだけかいても、つたえられていないほうがおおくてじぶんがもどかしいです。
りかいしてもらうことは、わたしにとって、みをまもることになるから、ひっしです。
しゃかいてきじゃくしゃを、とくべつしも、みくだしも、いらいらも、しないでください。
かなしくてほんとうにからだがへんになっておきあがれません。