児童精神科を探し当て、主治医を探し当て、学校を探し当て、
神経がナノの単位の刺激だけでペタの単位ほど揺れ動いてきた、そんな激動かつ濃密な期間が終息に向かっていると言えると思います。
12年???
気付いたら干支が一周してしまっていますね



まだまだ手がかかると思いますが、それでもこの激動かつ濃密で繊細な状態を、よく辛抱して耐え抜いたと思うよ。
命辛々、だった事は間違いない。
君は美しい青年になり、私は容姿の劣化が激しくなりました。
そもそも自分の事なんて、昔から全てが厳しい状況ばかりで、構ってなんていられなかった。
親や友人や配偶者などなど支援があった同性に対する嫉妬、奥深くではあったかもしれません。
でも、それを自覚する前に更なる厳しい状況があったので、もうただ必死で無我夢中で、この子たちを、が最優先でした。
時代だったのだと思いますが、振り返れば両親ともが子どもより親きょうだいを優先する境遇で、真の理解者はいませんでしたから、物理的に親はいても心はずっとひとりでした。
だから、もし、私が親になるような事があれば、こんなさみしい想いを精神的にはさせない、と決めていました。
父方は祖父母を早くに亡くしているので、きょうだいたちが支え合って育ったのだそうです。
当時18歳の伯母は未婚のまま父や下のきょうだいたちを育てあげました。
無学で働き詰めで、妹が臨月で旦那と死別して家に戻って来ても、やがて生まれた従兄の親代わりにもなりました。
皆が自分ひとりで育ったような顔して自立して恩返しをしなくとも(出来なくても)伯母は何もいいません。
そんな我が子として育てた父が先に逝ってしまった時、伯母は錯乱していました。当たり前だと思います。
だから、博士号は病気で倒れて獲れなかったけれど、村一番の神童とかつては呼ばれた父の忘れ形見である、よく似た娘である私は、
大学院からいただける『博士課程修了証書』を父の実家を守ってくれている伯母に送りました。
『お父さんを育ててくれてありがとう。博士号を獲れずに病に倒れてしまってごめんなさい。』と。
そうして子ども達の傍にいる事が出来ています。
明日を考えたら重圧で怖い日々だけれど、どうにかこうにか、細々・切れ切れに(苦笑)やってます。
感慨に浸る余裕も無い日々。
ちょっと一息つかせてもらえたらお昼寝できるかな~、って(笑)
こんな私にしてくれてありがとう。
誰に言ったらいいのか解らないけれど(笑)
それではおやすみなさいm(_ _)m
